変える 試みる 小金井の人たち  file3の3

自主上映会が波のように全国各地に広がる映画「祝(ほうり)の島」の監督

 

纐纈(はなぶさ)あやさん           3回集中連載の第3回

 

 

ロングインタビューの最終回。

資金集めの苦労から、東日本大震災による原子力災害への思いや次回作のテーマなどを聞く。幼い頃から住んでいるこのまち、小金井についても。

――自主映画作品を長い時間をかけて作るときに、おカネの問題は重要だと思うのですが、資金はどのように?
 ものすごく苦労しました。
 最初、資金はゼロでしたので、私が自分でアルバイトをしながら、小さなハンディカメラを持って島に通い、少しずつ撮りためていって形にできれば、と考えていました。


 島に通い始めることを、ずっと気にかけてもらっていた本橋さんに報告すると、「それは良いね。面白い。やりましょう。ただね、映画をつくると決めたら、『映画をつくります』と宣言しなさい。いつか形になれば、と言っていたら絶対に形にできない。自分を追い込む意味でも、映画をつくると公言しなさい」と言われた。

 

 さらにもう一つ、「今、カメラも編集機も性能が上がっていて、一人で撮って完成させることはできるし、そういう映画は増えている。しかし僕が考える映画というのは、決して一人ではできない世界だ。色んな分野の技術をもった人たちが、体と頭と心を持ち寄って作り上げていく世界。それは一人では絶対にできない世界だよ。それが映画の面白さなんだ。だから最低限のチームをつくりましょう。そのために僕がまずプロデューサーをしましょう」と言って頂いたのです。

 

――それで本橋さんがこの作品のプロデューサーなのですね。
 ただ、資金に関しては「あなた自身ができるだけ動いて集めなさい」という本橋さんの指令もあって、いろいろと企業回りもしました。大企業は絶対に乗ってくれないだろうから、ベンチャー的なところで社長の采配で決まりそうなところを色々とあたったのです。結局、最後の最後でスポンサーについてもらうことはできませんでした。
そこで考えたのは、映画に賛同してくださる方とか祝島を応援したいという方の思いを集めて映画をつくることでした。そうして「映画『祝の島』を応援する会」を立ち上げたのです。

 

 私は初めて監督をするわけですし、どんな映画かもわからないので、撮り始めた映像を30分ぐらいにしたダイジェスト版を持ち歩き、祝島と東京を行ったり来たりする間に途中下車して、紹介してもらった人とか自分の知人を訪ねました。普通のおうちの家庭のテレビで見てもらうこともあれば、20人、30人と集まって話を聞く会を設けてもらったこともありました。

 

 結局、最終的には600人から600万円が集まりました。それが全体の資金の半分ぐらいです。撮影が終わるまではそのお金で回して、そこからは制作会社になっているポレポレに資金を出していただいて完成させました。全部で1200万円ぐらいの予算でつくりました。

 

――纐纈さんが暮らしていくおカネも必要だったのでは?
 どうやっていたのかが不思議なくらいです。でも本当に祝島では島の人たちに、島の海に食べさせてもらっていました。

 

 東京にいる間は、実家の小金井に戻っていたので、必要最低限があればというような思いでした。自分自身の経済的な厳しさはありましたが、「おカネは大事だけど、一番大切なものではないんだよ」ということを、ずっと島の人たちの生きる姿からみせてもらっていて、それがすごく支えになっていました。
 何度も何度も崩れそうになるたびに、「島の人たちがあれだけがんばっている」と。

 

――作品の上映は、3・11の後に増えましたか?
 劇的に増えました。
 チェルノブイリの事故の日(4月26日)にあわせて、2010年4月26日に完成試写会をして、この規模の映画にしてはいい感じで上映を続けているかなと思っていたところに、3・11があったのです。それ以来、爆発的にというか劇的に見たいと思ってくださる方が増えました。とても複雑な思いだったのですが、今この時期に原発のことを考えないでどうすると。30年前から反対してきた人がいることを知って頂きたいということで一生懸命上映会活動を続けてきました。


 

 

――3・11の時はどちらに?
 その日、私は山梨の上映会に行く予定でした。大変な混乱状況でしたので上映会は中止になりました。しかし、予定ではその後も3日間上映会が設定されていましたので、どうなるか分からないけれども、とにかく山梨に車で向かいました。


 翌12日、こういう時だからこそ、この映画を見たいということで上映会が開かれました。

 福島の1号機の水素爆発が起きて、菅さん(当時の首相)の記者会見が始まるということで、上映が始まった後、一人で会場から外に出てテレビを見ていたのですが、あの記者会見を見ていた時の気持ちというのは、本当に忘れられません。心に入ってくる言葉が何一つなかった。一番重要なこと、知らされるべきことは何一つ語られない。もどかしさと、悔しさが入り混じる思いでした。

 

 その時、突然、あるイメージが湧いてきたのです。
 まあ、今は大丈夫とか、致し方ないとか、どうにかなるとかとなんとなく積み上げられてきた曖昧な思いや考えが、今、津波で崩れ去ったのだと。

 

 これから日本はどうなるのだろうと、暗たんたる思いで上映会の会場に戻りました。そこには今までと変わりない島の人たちと島の風景が映し出されていて、「ああこの島の人たちは、致し方ないとかどうにかなるとか、まあまあということをこの30年間一切せずに、自分が大切だと思うものを大切だと言い続けてきた。そのことを誰にも委ねないで、自分たちの手で握り締めて戦ってきた。それがあって今この人たちの姿があり、この美しい島の風景があるのだと」と、その時、本当に強く思いました。改めて島の人たちが守ろうとしたものが何だったのかを3月11日以降、私自身強く感じるようになりました。

 

 映画では、平(たいら)萬次さんという方の棚田が登場します。日本最大級の棚田です。
 祖父の亀次郎さんが30年かけてつくったものです。たった一人で30年かけてつくりあげた、まるで城壁のような棚田。自分のためでなくて子や孫がお米にこまらないようにと作り続けた。そこで今、お孫さんの平さんがコメを作り続けている。それを知ると、海をはさんで建設されようとしている原発は何だろうと思います。

 

 最終的な処理方法も決まっていない放射性廃棄物を次世代に肩代わりさせることを前提に、原発をつくっている。次の世代のことを考えて行動しているじいちゃんと、目の前のことだけ、自分のことだけを考えて原発をつくろうとしている今と。この決定的な差は何だろうと思います。

 

――完成してもっともうれしかったことは?
 私自身があの島の人たちと出会ったように、島に行けなくても映像を通して島の人と出会ったと思ってもらえるような、そんな映画にしたいと思っていました。

 

 本当に知り合えた、出会えたという感覚のある映画にしたい。それは上関原発の問題を考えようと、データを集めたり、報道を読んだり見たりしてというのとは違って、祝島の人たちと本当に出会ったなと思えたら、自分が出会った人たちがずっと向き合っている問題として、自分の意識に入ってくるということがあると思うのです。

 

 問題を問題として知ってもらうのではなくて、島の人たちと出会えたという感覚を持ってもらえば、上関原発の問題もその人自身のこととして近くに引き寄せられるのではないか。映画を見終わって、島に行きますという人もとても多かった。映画のパンフレットを地図代わりにして、定期船に乗ってくる人が増えたと、島の人たちから聞きました。

 

 この映画に対して色んな見方をする人もいますし、私自身、あの描き方で良かったんだろうか、もっと色々とできたのではないだろうか、という思いや迷いは、いまだにあります。

 

 複雑な思いがたくさんあるなかでその度に思い出す、ある人がいます。
それはポレポレの映画館で作品が公開された時のことでした。毎回、舞台挨拶をしていたのですが、挨拶を終えてパンフレットにサインをしているとき、たぶん女子大生かな、20歳ぐらいの女性が近寄ってきました。彼女は、いろいろあるけど言葉にならない、という感じで、ぽろぽろ泣いていました。色んなことを受けとってもらえたのかなということだけはすごく伝わってきました。最後に泣きじゃくりながら一言、「ありがとうございました」と言ってくれたのです。

 

 いろいろと思う時に、彼女の姿が毎回思い出されてくるのです。何が、どう伝わったのか、この作品がどんなものなのか、私自身良く分からないことがあるのだけれど、でも一人の人がああいう風に見てくれただけで十分じゃないか、という思いがあります。
 いろんなことで迷ったり、悶々としたりすると、彼女の姿が浮かんできて、「ああ、つくって良かったな」と思うんです。

 

――今年3月にクランクインされたという次の作品はどんなテーマですか?
 大阪の貝塚市立と畜場で、ずっと作業をされていたお肉屋さんの家族のお話です。

 

 本橋さんの作品で、「屠場」という写真集があります。その写真集ができるとなった頃から、私も大阪・松原へ出かけるようになりました。そこで会う人たちが本当に楽しい人たちで、一緒にお酒を飲んだのですが、その時のわくわく感が祝島で感じるものと同じだったのです。
 松原の屠畜場の見学に行ったりして、そこで行われていることはすごいなと思いました。機械化は進んでいますが、それでも命がけでの作業です。牛の命を奪い、解体していくという、すごい重労働。これがあって私たちの食べるという行為が成り立っている。それは簡単な言葉でくくれません。その光景を目の当たりにしたら、決してグロテスクとか残酷という言葉は出てこない。あの真剣勝負を目の前にしたときに、自分も、ものを食べている人間として、これをきちんと見ておかなくてはいけないとすごく思いました。心地よいものでも、進んで見たいものでもないかもしれませんが、でも食べるということをしている人は誰もが、一度はきちんとこの光景と向き合うべきだと思いました。

 これを映画にしたいなという思いがその時からあったのです。祝島に通い始めた時から、屠場の映画を作りたいと思っていたのです。

 

 それをどう撮ろうかと考えていたときに、3月11日が起きました。
自分が撮りたいものを撮っている場合じゃないだろうと思い、私も福島に通って何か映像でできることをしなければ、と思いました。自分なりに大きな決意をして通うことにし、何回か足を運びました。自分なりの入口が見えたらと思っていたのですが、とてもとてもそんな状態ではない。カメラを取り出すこともできませんでした。

 これは1、2年の話ではなく、私が死ぬまで福島のことは続いていく。その長い時間の中で、自分なりのつながりを時間をかけて見つけるしかないなと思いました。

 

 その時に貝塚のあるご家族と出会ったのです。貝塚の屠畜場は閉鎖されるということで、昨年10月末に最後の作業が行われました。有志の人が牛一頭を買って、その解体作業を見学するということで行われた。その時、作家の鎌田慧さんとの対談を聞く機会を頂いたのですが、鎌田さんが「すごい技術、職人芸ですね」というと、その方は「いえいえ、だれでもやっていればできることです。特別でも何でもない日々の仕事です」と言われた。その言葉を聞いた時に、この屠畜作業を特別なこととしてではなく、暮らしを支えてきた一つの仕事として絶対に記録したい。そういう記録として多くの人が見るべきだと強く思ったのです。

 

 今年中には完成させる予定です。本橋さんがプロデューサ―で、『祝の島』を撮った大久保さんが撮影を担当します。

 

――ところで、自由学園を卒業されてすぐにポレポレに入られたのですか?
 いえ、卒業してから5年後ぐらいかな。自由学園を卒業してからは、いろいろと仕事をしていました。最初は半導体の商社で3年間、OLをしていました。

 

 一年を過ぎる頃に、果たして半導体を売って人の幸せに貢献できているんだろうかと疑問が湧いてきて、その時、「あっ、そうか、自分は自分の仕事によって人の幸せに貢献できるとか役に立てるということを実感できなければ仕事が続けられないんだな」と思ったわけです。最初の仕事に疑問符がついたので、それからは人の幸せ、社会に貢献できるものを探そうと。

 いろんな仕事を経て本橋さんと出会ったのは26歳の時でした。

 

――小金井にはいつから?
 私が4歳の時です。それまでは三鷹。生まれは杉並区。ポレポレで仕事をしている時に武蔵野市に一人暮らしをしていましたが、どうしてもこの周辺から離れがたい。居心地が良いので。

 

――離れがたい魅力とはなんでしょうか?
 小金井がすごく小さいころから好きでした。野川公園、武蔵野公園によく遊びにいったし、「はけの道」が大好きで、自転車でサイクリングしていました。
 特になにがあるというわけではないけれど、きれいな水と緑があるというのは子どもながらにすごく好きでした。

 

――どんな子どもでしたか、小学校の頃とか。
 子ども時代はとにかく体を動かすのが大好きでした。

 小学校だけは自由学園ではなく、東小に通っていたのですが、そこで女子サッカーを3年間ずっとやっていました。小金井は昔から女子サッカーに力を入れていたんです。東小は弱小チームでしたが、一小は強くて同年代に全日本のチームに入っていた人がいたと思います。

 あとはものすごく田舎にあこがれている子どもでした。

 

――祝島を「懐かしい」と感じる素地があったのですね。
本当にそうですね(笑)

 

 

 

(終わり)

纐纈(はなぶさ)あやさんのプロフィール◇
*1974年12月生まれ
*杉並区で生まれ、4歳の時に小金井市へ。東町に在住。
*経歴:自由学園を卒業。2001年ポレポレタイムス社に入社。映画「アレクセイと泉」(2002年)の制作、配給、宣伝を担当。映画「ナミイと唄えば」(2006年)ではプロデューサー。
*仕事:フリーの映画監督。

編集部から:インタビューの中で話されていた次回作品『ある精肉店のはなし(仮題)』の概要などは下のチラシでお読みください。映画製作への「応援」についても書いてあります。(2012年9月)

ある精肉店のはなし(仮)のチラシ表面.pdf
PDFファイル 4.4 MB
ある精肉店のはなし(仮)のチラシ裏面.pdf
PDFファイル 2.4 MB

 11月8日(日)

  第73号の主な内容

(随時更新されます)

《市政の焦点》

■12月小金井市長選特集

☆白井とおる市議が立候補表明(2015年11月8日更新)

 

☆白井市議の立候補記者会見に40人以上の市民が参加(2015年11月8日更新)

 

☆4陣営の対決構図に 財政健全化への具体策が焦点(2015年11月8日更新)

 

≪酒好きのたわごと≫

その15 越後の酒と謙信(2015年10月17日更新)

  うれしいニュース!

 公益社団法人「全国学校図書館協議会」が発行している「としょかん通信」(中・高校生版)2015年6月号の《今月のブックトーク》に『まちの力 ひとの力 ――変える 試みる 小金井の人たち』がとりあげられました。

 1人でも多くの中学生、高校生にこの本を読んでもらえたら、と思います。感想文も送ってもらえると、とってもうれしいですね。

 以下にその部分を貼り付けました。筆者は、ほそえさちよさんという子どもの本の編集者だそうです。タイトルは、「生きるために つながる」。

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全体はこちらから
としょかん通信「今月のブックトーク」.pdf
PDFファイル 5.3 MB

こがねいコンパスのインタビューシリーズ《変える 試みる 小金井の人たち》をまとめた本『まちの力 ひとの力』が図書出版クレインから刊行されています。ウェブ版では読めない、取材秘話などを明かす4本の「エピローグ」と、やまさき薫さんの素敵なイラスト付き。定価1500円+税です。市内の各書店でお買い求めください。クレインでも注文できます。

毎月第1・第3土曜日が定期発刊日です。こがねいコンパスは市民のための羅針盤を目指し、市民とともにつくる地域メディアです。ご意見・ご感想・情報提供などを、koganeicompass@gmail.comへおねがいします。

詳しくはイベントカレンダーのページをご覧ください。こちらから。

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 この人に聞く

脱原発社会への道筋を探る

民間の英知を結集して「脱原子力政策大綱」をまとめる「原子力市民委員会」の舩橋晴俊座長。

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*船橋晴俊さんは2014年8月15日、くも膜下出血で急逝されました。ご冥福をお祈りするとともに、船橋さんの思いを少しでも多くの方に知って頂きたいと願っています。(編集長・佐藤和雄)

 

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民主党小金井支部幹事長

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イラクから問い続けてきたもの

映画監督・鎌仲ひとみさん

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