変える 試みる 小金井の人たち  file3の1 

自主上映会が波のように全国各地に広がる映画「祝(ほうり)の島」の監督

 

纐纈(はなぶさ)あやさん           3回集中連載の第1回

 初監督作品の映画「祝の島」(ほうりのしま)が全国各地で上映されている。2010年4月の公開から300カ所以上の会場で、すでに1000回を超えた。

 原発建設に反対している小さな島の人々の暮らしと思いを映し出すドキュメンタリーは、3・11後の世界の中で静かで、確かな光りを放っている。

 2年の歳月をかけて完成させた纐纈さんがこの作品で観客の心へ届けようとしたものは――。東小でサッカーに夢中だった少女が、映像作家への道を踏み出すまでの軌跡は――。

 

――舞台となる山口県・祝島(いわいしま)との出会いは?
 初めて行ったのは2003年1月でした。当時、私は、写真家で映画監督の本橋成一さんの事務所「ポレポレタイムス社」で働いていました。本橋さんは、チェルノブイリの事故が起きてから被災地の村に通い、写真と映画を撮りました。その作品の一つであるドキュメンタリー映画「アレクセイと泉」の自主上映会の事務局として全国を回っていたのです。
 ある人に「この映画をぜひ見せたい人たちがいる。元気なベラルーシのおじいちゃん、おばあちゃんたちにそっくりな人たちがいる」と言われ、連れて行ってもらったのが祝島でした。


 島の人たちは当時ですでに20年以上、対岸にできる上関原発の建設に反対をしていました。約500人の島民の9割が反対を表明し、中国電力からの漁業補償金の受け取りも一切拒否し、反対運動を続けてきたのです。

 

――島の人たちの印象はどうでした?
 原発反対の島と聞いていたので、頑なで、ものすごく意思の強いおじいちゃん、おばあちゃんがいるのだろうと、がちがちに緊張して行ったのです。
 しかし、島に降り立ったとたん、元気で明るく、はつらつとしたおじいちゃん、おばあちゃんが次々に現れて、その姿を見ただけで自分の中でつくりあげていたイメージが吹き飛びました。

 

 私は、不思議なことに「ああ、ふるさとに帰ってきた」と思ったのです。私は東京生まれ、東京育ち、小金井育ちですから、田舎というものがないのですが、「懐かしい」という気持ちが一番しっくりきました。

 

――どこに「懐かしさ」を覚えたのでしょう。
 出会ってすぐに「これ、美味しいから食べていきんさい」とか「ちょっと一杯、飲んでいきんさい」と招きいれられました。その話をしている時の感覚とか雰囲気とか。あの小さな集落を歩いているときの感じですかね。何か懐かしい。この懐かしさは何なのだろうと思いました。
 

 色んな情報があり、色んなモノがあるなかで、自分がそこに体を置いて、ほっとするという感覚。ずっとその後も私の中にその感覚が残り続けました。

 

――初めて祝島に行って魅了され、その時に映画を撮ろうと思われたのですか?
 いいえ、私は自分を「ものを撮る人間」とはまったく思っていませんでした。
 そういうことを目指して本橋さんの事務所に行ったのではなく、年代はすごく違うのですが本橋さんが卒業された自由学園の後輩というご縁で、事務全般をするスタッフとして働くようになったのです。

 

 写真や映画を撮ったり、つくったりする人間というのは、特別な才能があり、きちんとした勉強をした人でないとと考えていました。だから、まさか自分がそのような「つくり手」になるということはまったく考えていなかったのです。
 でも、本橋さんは私が事務所に入ったすぐ後から、「君は写真をやったらいい。写真が嫌だったら映画でも良いよ。きっとやった方がいい」とすごく言っていだきました。
 それを聞いたときには、私は「何を言ってるんだろう、このおじさんは」という感じで、聞く耳を持たずにずっと拒み続けていました。

 本橋さんがその時から言い続けてきたのは「映像というのは、やろうと思えば誰でも技術はある程度身につけられる。でも本当は技術じゃなくて、その撮ろうとするものとどう関わるか、関係性をつくるかなんだ。あなたを見ていたら、人とつきあうのが恐らく好きだろうから、きっと向いていると思うよ」ということでした。

 しかし、私にはさっぱり分からなかったし、本橋さん自身がとてもすぐれた写真家であり、映画監督ですから、この自分が写真や映画を撮れるとは考えもしなかった。

 

 ただ、祝島から帰ってくる定期船で「もし、ものを撮る人間だったら絶対にここに来たら面白いだろうな」と思ったことは明確に覚えています。

本橋さんはすっかり忘れているのですが、その時、本橋さんが私に囁いたんです。「僕はこの島は撮らないけど、あなたが映画にしたら良いよ」と。その時は「また、何を言っているんだろうな、この人は」と思っていたのですが。
 でも、その言葉はずっと残っていました。

 

 

 

――祝島に行った後ですが、映画「ナミイと唄えば」(2006年、監督・本橋成一)のプロデューサーを担当された後、いったん映像の世界からは離れましたね。
 ええ。「ナミイと唄えば」をプロデュースした時はまだ20代でした。
映画を一本つくるというのは本当に大変なことです。それもプロデューサーというのは要の役割をするのですが、右も左もわからないところで「君、やって」と言われて。本当に大きな経験をさせて頂いたのですが、もうほとほと疲れ果ててしまいました。

 

 理由の一つにはドキュメンタリーというのは、今いらっしゃる方たちの人生に踏み込んでいく。それは良くも悪くも必ず「その後」が変わっていきます。そのことの責任の重さがものすごく大きいなと痛感しました。

それから映画を一本撮ると、最終的な完成までにのべ1000人近くの人たちと関わりながらつくるわけです。関わっていかなければ絶対に作品はできないわけですが、人と関わることに疲れと恐れが芽生えたのです。

「もともと私は映像をやりたかったわけでもないし、もうこりごりだ」。そう思ってポレポレタイムス社を辞めました。それが2006年かな。「ナミイと唄えば」が完成した直後です。

 

――辞められた後は、映像の世界とは全然違う外資系のIT企業で働いていたとか。
 色々な仕事をやりました。染織をしたいと前から思っていて、染織の工房で習いながら、着物の着付け学校などでアルバイトをしました。でもアルバイトだけでは厳しくて、派遣社員に登録して派遣された先が、その外資系IT企業だったのです。そこに一年半ぐらいいました。
 その会社はポレポレでの仕事とは真逆のようでした。ブースに社員一人ひとりが入り、隣の人にもメールで連絡するといったように、完全に電子化されていました。会議もみんなパソコンを持ち込み、人の顔を見ずに、パソコンに向かいながら会議をするみたいな。そういう中に身を置いていると、強烈に人と関わりたいという思いが湧いてきました。

 

――その企業では何の仕事をしていたのですか?
 マーケティング部の部長秘書でした。

 

――人と関わりたいという強烈な思い。それに加えて、あるドキュメンタリー映画を見たことが映画づくりに踏み出す大きなきっかけになったと聞きました
 とんとんとんとつながっていったのですね。
「めんどうくさかったり、辛かったり、厳しかったりとかいろんなことがあるけど、そうしたこといっさいを含めたものが、人と関わることなんだ、その全体が喜びにつながっていたんだ」ということが分かり始めたころに、『アレクセイと泉』を久しぶりに見て、さらにドキュメンタリー映画『満山紅柿 上山 人と柿とのゆきかい』(監督・小川紳介、彭小蓮)を見たのです。


 映し出されたアレクセイの世界は、特別な姿でも何でもない日々の暮らしを描いているのですが、「人間って本当に面白いな、良いなあ」と思いました。

 『満山紅柿』(まんざんべにがき)では、つくり手側、撮る人間と被写体との関係性が映像に確実に現れている。それが一つの表現になっていることに、あらためて気がつきました。

 

 私とその人との関係性のうえに映像表現が成り立つ。私とその人との関係性は唯一であって、その関係性を大切にするというのは、私が生まれてからずっと続けてきた行為だな、と。それが表現につながるのだったら、私にもできるかもしれないと思ったのです。

 

 特殊な才能や勉強が必要ないとは絶対には思わないが、特別な人がやるものだと思い込んでいたのが、私にもできるんじゃないか、と初めてその時に思ったんです。

 

 そう思ったら、『満山紅柿』のエンディングロールが流れている時にすでに「誰との関係を結びたいんだろう」と考えていました。その時に思ったのが祝島でした。「あの島はどうなっているんだろう。もう一度、行ってみたい」と。
 それが映像につながるんじゃないかという思いになっていたのです。
 2008年の2月のことです。翌月から島に通い始めました。

 

――思い立ったら、行動が早いですね。
 早いです、すごく早いです。でもポレポレに入った時から考えると6年ぐらいかかっているんですね。最初のころに本橋さんに「映画を撮ったら」と言われながら、遠回りして遠回りして。

 

 


(続く)

 

◇纐纈(はなぶさ)あやさんのプロフィール◇
*1974年12月生まれ
*杉並区で生まれ、4歳の時に小金井市へ。東町に在住。
*経歴:自由学園を卒業。2001年ポレポレタイムス社に入社。映画「アレクセイと泉」(2002年)の制作、配給、宣伝を担当。映画「ナミイと唄えば」(2006年)ではプロデューサー。
*仕事:フリーの映画監督。

 11月8日(日)

  第73号の主な内容

(随時更新されます)

《市政の焦点》

■12月小金井市長選特集

☆白井とおる市議が立候補表明(2015年11月8日更新)

 

☆白井市議の立候補記者会見に40人以上の市民が参加(2015年11月8日更新)

 

☆4陣営の対決構図に 財政健全化への具体策が焦点(2015年11月8日更新)

 

≪酒好きのたわごと≫

その15 越後の酒と謙信(2015年10月17日更新)

  うれしいニュース!

 公益社団法人「全国学校図書館協議会」が発行している「としょかん通信」(中・高校生版)2015年6月号の《今月のブックトーク》に『まちの力 ひとの力 ――変える 試みる 小金井の人たち』がとりあげられました。

 1人でも多くの中学生、高校生にこの本を読んでもらえたら、と思います。感想文も送ってもらえると、とってもうれしいですね。

 以下にその部分を貼り付けました。筆者は、ほそえさちよさんという子どもの本の編集者だそうです。タイトルは、「生きるために つながる」。

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全体はこちらから
としょかん通信「今月のブックトーク」.pdf
PDFファイル 5.3 MB

こがねいコンパスのインタビューシリーズ《変える 試みる 小金井の人たち》をまとめた本『まちの力 ひとの力』が図書出版クレインから刊行されています。ウェブ版では読めない、取材秘話などを明かす4本の「エピローグ」と、やまさき薫さんの素敵なイラスト付き。定価1500円+税です。市内の各書店でお買い求めください。クレインでも注文できます。

毎月第1・第3土曜日が定期発刊日です。こがねいコンパスは市民のための羅針盤を目指し、市民とともにつくる地域メディアです。ご意見・ご感想・情報提供などを、koganeicompass@gmail.comへおねがいします。

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民間の英知を結集して「脱原子力政策大綱」をまとめる「原子力市民委員会」の舩橋晴俊座長。

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*船橋晴俊さんは2014年8月15日、くも膜下出血で急逝されました。ご冥福をお祈りするとともに、船橋さんの思いを少しでも多くの方に知って頂きたいと願っています。(編集長・佐藤和雄)

 

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イラクから問い続けてきたもの

映画監督・鎌仲ひとみさん

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