変える 試みる 小金井の人たち file27-3
「新しい日中関係を考える研究者の会」代表幹事 毛里和子・早稲田大名誉教授(最終回)
1950年代の末、彼女は「日本ともアメリカとも、ソ連とも違うことをやっている。何かわからない存在」である中国に対して強い関心を抱き、大学でのコースを決める。
それから半世紀以上もの時を経て、卓越した中国ウオッチャーの眼に映るものとは――。
――2014年3月8日に東京大学・駒場キャンパスで、「研究者の会」が母体となった実行委員会が「現代日中関係の源流をさぐる ――再検証1970年代」という国際シンポジウムを開きました。「研究者の会」による最初の国際シンポとして、このテーマを選ばれたのはどのような理由ですか?
まずは我々が立っている「足元」を、しっかり確定しようということです。1972年の国交正常化に至る交渉は画期的な意味があります。しかし、にもかかわらず、足りないところ、瑕疵のようなものがあった。それを認識したうえで、我々はもう一度、日中関係を立て直すことが必要だ――。そういう結論を予測しながら72年の源流を分析しようとしたのです。
特に若い世代は72年についてほとんど知りませんから。本当は50年代、60年代についても、なぜ72年の国交正常化が実現したのかという観点で誰かが報告すればよかったのかもしれません。
今から振り返ると72年がともかくああいう形で国交正常化を果たしたのは、世論のおかげだとも思います。田中角栄は世論を背景にうまく、大衆政治家として正常化を実現しました。世論というのは、国民会議という形で、例えば公明党や社会党などが一緒になって、(「日中関係の正常化が必要だ」という)世論を広範に熟していった。財界も非常に大きな役割を果しました。
――国際シンポで議論された内容は重要だと思いますが、そうした認識を広く伝え、現在の世論に反映させていくために何が必要なのでしょうか?
それは非常に難しいですね。例えば昨日、国際シンポに関する原稿を書いて朝日新聞に渡しました(*3月29日付朝刊に掲載)が、できるだけそういうことをやるということでしょう。内外に向けての発信が大事だと思います。
さらにインターネット上で国際シンポジウムの内容が分かるウェブサイトを立ち上げました。そこにアクセスすれば、8時間のわたる議論の全容が分かるようになっています(http://sympo70s.jimdo.com/シンポジウム全体記録-暫定)。 *こちらから
《2014年3月8日、東京大駒場キャンパスで開催された国際シンポジウム「現代日中関係の源流をさぐる 再検証1970年代」(主催は「新しい日中関係を考える研究者の会」が母体となった実行委員会)には、日中米、台湾の研究者、市民250人が集まり、8時間を超える議論を交わした。毛里さんは、シンポジウムを締めくくる「総括ラウンドテーブル」のモデレーター(進行役)を務め、最後にこう語った。
「最後に私から少しだけお話する。このシンポジウムのキー・クエスチョンは、70年代に戻って、事態を根元的に考え直す必要があるのではないかというものだった。70年代、とりわけ72年の国交正常化には未完成な部分が非常に多かったが、必ずしも自覚されておらず、それをサクセス・ストーリーとして描く場合が多い。これで良いのだろうかというのが私の疑問だった。今日の議論を通じて、私の考えは必ずしも多数派ではないということが分かった。基本的に成功だと考える方も多数いらっしゃる。」
「私が未完成だと思うのはおそらく、日中関係というより、日本の戦争責任の処理なのだろうと思う。日中関係の80%は日本問題だとずっと思っている。その文脈で、72年に対する何か割り切れない思いの一つは、日本人にとって戦争の責任の問題でどう決着をつけるかが依然として曖昧なままだということだ。このことが今日の安倍問題も含めて事態を混乱させ、日中関係を湿っぽく、緊張したものにさせていると思う」
「この会を中心にして、あるいは他の日中学術交流関係の組織で、中国側と日本側が協力して、今後も日中関係の理解と改善に向けての学術的活動を我々は細々と続けていきたい。皆様にもご支援を賜りたい。今日のシンポジウムが充実した議論をし、時間通りに終わったことは素晴らしいことだ。学術界の日中関係は成熟に向かっている。これを社会と世論、メディアにも学んでいただきたい」 》
――ウェブサイトを「研究者の会」の自前のメディアとして、発信していこうということですね。
そうですね。ただね、事務局的な仕事をする人が足りず、おカネもないという問題を抱えています。今後は、例えば新聞社と協力して、あるいは共催団体になっていただいて、シンポジウムを開催するなどのやり方を考えていく必要があると思います。
――次のシンポジウムはどのようなテーマを?
今秋、「和解」をテーマにしたシンポジウムを開催しようと考えています。非常に難しいのですが、できるだけ普通の人たちにも分かる、啓蒙的でやさしい比較和解学にするつもりです。
――記者会見では学術交流の新しい仕組みについて、多くの質問が出ていました。これはどのように?
つまり・・・今までの学術交流があまりうまくいっていない。政治に翻弄されている、ということです。中国とのつきあいではある意味でしょうがないんですが、もう少し、政治に翻弄されない、恒常的なものができないだろうかと考えています。
今回のシンポジウムは「一本釣り」で中国側の研究者を呼んだのですが、中国側はそうしたやり方は嫌がるんです。特定の機関を窓口にしてほしいということですね。
だから・・・なかなか難しいのですが、フォーラムみたいな形で向こうの主要なインテリに10人ぐらい集まっていただいて、5年間ぐらい日中交流学術フォーラムという形でつくったらどうだろうと思っています。例えば年間に1冊本を出すとかすれば、歴史的にも足跡が残ることになります。
――さて、毛里さんが中国研究者になられた動機やきっかけなどをうかがいたいと思います。入学されたお茶の水女子大では文教育学部史学科で東洋史を選考されていたのですね。中国に関心をもたれたきっかけは?
うーん、なんと言いますかねえ。大した理由はないのですが、私は1950年代の終わりに大学に入りました。その頃の中国というのは、普通の国とは違うのです。例えば毛沢東の「大躍進政策」(*)も今から考えるといろいろと問題があった。餓死者が3000万人もいるということがあとで衝撃的に語られます。
*大躍進政策:毛沢東が1958年に発動した急成長政策。鉄鋼など主要工業の面で15年以内にイギリスに追いつくことを目標にした。増産目標を実現するために粗悪な製品が生産されたり、虚偽報告が頻発したりするようになった。穀物生産も混乱し、自然災害の被害ともあいまって各地で深刻な飢饉が発生。1500万人から4000万人が栄養失調などで死亡したと推定されている。
当時は何も分からないわけです。朝日新聞はとりわけ中国の素晴らしさをあおりたてました。私は18歳の何もわからないころですから、中国が日本ともアメリカとも違うことをやっている。ソ連ともどうやら違う。そういう何かわからないものに対して強い関心を抱きました。
――高校もお茶の水女子大付属ですか?
そうです。高校からそのまま進学するのですが、お茶の水女子大には法学部や政治学科がありませんでしたから、中国に関係するところと言えば史学科の東洋史しかなかったのです。
――研究者になろうとはいつごろ?
さあ、それもよく分からないですね。卒業してから日本国際問題研究所に入り、中国関係の資料集などをつくります。そのなかで「中国についてちゃんと勉強した方がいいかなあ」と、しだいに思うようになりました。研究者になるという強い気持ちも、その見通しもあったわけではないのですが、とにかく大学院に入ろうかということで、東京都立大学の大学院に入ったのです。
都立大の大学院を出ると、日本国際問題研究所では「研究員」として採用してくれるのですね。試験を受けて研究員になったわけです。ただ、国際問題研究所は財政基盤はそんなに盤石ではありません。研究者としてやっていくのであれば、大学に(教員として)出た方が良いのです。1987年ぐらいまで、国際問題研究所で研究者としての基礎を積んだということでしょうか。
――そのあと上海の総領事館で専門調査員を?
そうです。
――それから静岡県立大学へ?
そうそう。そのあとが横浜市立大学、早稲田大学政治経済学部です。
――これまで中国研究の専門家として50年近くやってこられたわけですが、振り返ってみて良かったことは?
中国の(文革による)混乱が78年にとりあえず収束します。その後、近代化政策に転じたときにいろんな見方がありました。うまくいく、あるいはうまくいかない。まあ、確かな予想がつかなかったわけです。多くの人は、これほど中国が発展する、大きな国になるとは思わなかったでしょう。
78年からすでに35年経つのですが、その中で中国が大混乱に陥ることなく、人々の生活が向上した。これがやはり、我々、隣に住むものとしては大変うれしいことではないでしょうか。
とにかく「混乱の中国」というのが、一番怖いことです。大気の汚染はひどい、食物の安全の問題もある、といったことはありますが、人々は平和に暮らし、より豊かな暮らしを享受するようになった。これは予想しなかったことです。お隣りの我々としてはご同慶の至り、ということでしょう。
産経新聞はいろいろと中国を批判していますが、ああいう中国がいてくれて、日本にとってはマイナスよりもプラスの方が大きいのではないでしょうか。そういうことをどうして考えないのだろうかと思います。
――「こがねいコンパス」という地域メディアでもありますので、小金井とのご縁についてもうかがいたいと思います。小金井市に来られたのはいつごろですか?
国分寺市に引っ越したのが1983年です。私も夫も引っ越しが大好きなもので、結婚以来、もう10数回も引っ越しをしています。ちょっと手狭だということもあり、小金井のあたりで(土地を)探していたら、ちょうど空き地があったのですね。小金井に来たのが1992年ですから、それから22年ですね。これだけ長く(一か所に)落ち着いたのは、画期的なことです。
――お連れ合いも研究者ですから、引っ越しすると本の移動が大変ではないですか?
大変ですね。本当に引っ越し屋さん泣かせです。真夏でした。国分寺から小金井に引っ越す時に、本が(段ボールで)250箱ぐらいあったのです。そうしたら、運び終わったあと、ふうふう言いながら、こう聞くのです。「奥さん、こんなにいっぱい本があるけど、全部読んだんですか?」。
――どうお答えに(笑い)?
「すみません。まだ読んでいません」(笑い)
(終わり)
こがねいコンパス第51号(2014年5月3日更新)
◆毛里和子(もうり・かずこ)さんのプロフィール
1940年、東京都に生まれ、1962年お茶の水女子大学文教育学部史学科(東洋史専攻)を卒業。日本国際問題研究所主任研究員、在上海日本国総領事館初代専門調査員、静岡県立大学、横浜市立大学を経て1999年4月から2010年3月まで早稲田大学政治経済学部・大学院政治学研究科教授。『現代中国政治』で毎日新聞社アジア太平洋賞大賞。『周縁からの中国―民族問題と国家』で大平正芳記念賞。『日中関係』で石橋湛山賞など、著作の多くが受賞している。小金井市貫井北町在住。