変える 試みる 小金井の人たち   file25-3

『約束の水』の千秋楽が終わり、来場者との交流の場で
『約束の水』の千秋楽が終わり、来場者との交流の場で

変える 試みる 小金井の人たち file25-3
NPO現代座代表/脚本家・演出家 木村快さん(最終回)

 

支配する側ではなく、支配される側の物語を紡ぎだしてきた木村快(かい)さん。その揺るぎない視座によって、移民史から抹消されたブラジル・アリアンサ村の歴史を掘り起こしてきた。さらには、社会が差別してきたハンセン病患者・元患者の苦難を聞き取り、朗読劇によって伝える取り組みも続けている。

 

そこにはこうした思いがある――。

 

「僕のように谷間の世代は、そうした事実があったことは残しておかなくてはならない。今の人のためではなく、いずれ同じような問題に直面した時に、根本的な人間のあり方を考え直す問題として」

――木村さんは昨年8月、『共生の大地 アリアンサ ブラジルに協同の夢を求めた日本人』という本を同時代社から上梓されました。歴史から抹消されたブラジル・アリアンサ移住地の歴史を掘り起こした記録であり、国の移住政策に逆らって自分たちの自治による理想の移住地をつくろうとした大正時代の男たちのドラマでもあるそうですが、なぜブラジルの移住地に関心を?

 

現代座は1994年、『もくれんのうた』という作品を日本ブラジル通商条約100周年記念行事として、ブラジルの11の都市とサンパウロ州奥地のアリアンサ村で上演しました。

 

ブラジル移民の30年ぶりの帰郷を題材とした作品です。ブラジル日本文化協会などの招聘によって、約1か月かけて回ったのです。どの都市でも人々は俳優の一挙手一投足に爆笑し、喜んでいただきました。

 

帰国する際に「何かお役にたつことがあれば」と聞くと、「日系子弟のためにアリアンサの正確な歴史を残しておきたいのだが、日本側の公的移住資料が見つからなくて困っている」と言われたのです。日本に帰って調べると、戦前の移住資料が散逸しており、日本にはブラジル移住史の専門家もいないことが分かりました。

 

戦前、国策で20万人以上もの移住者を送り出し、現在はその子弟を20万人以上も労働力として導入していながら、「そんな歴史は知りません」という国があっていいのだろうか――。深く悩みました。

 

アリアンサの人たちは、一般的な意味で「捨てられた民」ということではないけれども、しかし、「国に捨てられた」という歴史的事実はあります。ブラジルに行ってみると、いろんな民族が移住しているから、国によって移民に対する考え方が違うことがよく分かります。日本の移民政策が一番恥ずかしい、という実感がありますね。

 

――アリアンサは、盟約とか協力を表すブラジル語とか。大正時代に、協同組合組織で理想の村を建設しようという珍しい移住地だそうですね。

 

コミュニティというのは結局、「共生」と「協同」を原点に置かないと成り立たない。そんな特殊なことではありません。人類の生存そのものが共生から始まるのです。

 

――「もくれんのうた」のブラジル公演によって、アリアンサ村の存在を知り、そして深く調べていく。それは木村さんの考え方、作品に影響を及ぼしていますか。

 

創設者の人たちが偉かったのだと思いますが、アリアンサ村では、一切規則なし。この影響は大きかったですね。「いろんなことを恐れる必要はないのだな」と思いました。ただ、はっきりしているのは、「うまくやろう」という人は、なかなか「共生」はできない。

 

とにかくあるがままに、そこに居合わせた人たちと一緒に生きていく。そこには、人生をまっとうしていくという本来の日本人の考え方があったと思います。今、この「まっとうする」ということがなくなってしまった。

 

――「まっとうする」?

 

自分もこの歳になると同年代の人たちが気になるから見ているのですが、とにかく生き延びることにはみんな熱心で、薬もいっぱいもらいますよね(笑い)。こりゃ、「まっとうにならんな」という危機感があります。それは不幸なことじゃないか。

 

やはり、周りから見守られて・・・いや、見守られる人がいないときには自分だけで終わるんだよという覚悟がないと。そんな人間像を書いてみたいという気持ちがひそかにありますね。孤立無援で最後を迎える。それが、幸せな生き方でないことはない。

 

   (NPO現代座のホームページから)
   (NPO現代座のホームページから)

――NPO現代座は、2001年から熊本県の「菊池恵楓園」、鹿児島県の「星塚敬愛園」のハンセン病・元患者と交流をつづけ、元患者の声をホームページに掲載したり、小さな集まりでの朗読劇などを行ったりしています。この活動について、木村さんは現代座のホームページに次のように書かれていますね。
《わたしは以前、ある雑誌の依頼でハンセン病元患者を紹介する連載をしたことがきっかけで、熊本・鹿児島の療養所に多くの友人ができました。わたしの本業は芝居の台本を書くことですが、芝居の台本は人間を書く仕事ですから、仕事の性格上、学者や弁護士とは違った次元で人の運・不運、社会正義といった問題について考えさせられます。どんな差別も同じですが、差別を本当になくすには道徳的な判断だけでなく、差別がどうして起こったのか、なぜ気づかずに過ごしてきたのかを、わたしたち自身の問題として考えてみることが必要です。 ハンセン病の問題を考えることは障害者や社会的弱者の問題を考えることとまったく同じで、共に生きるという21世紀のノーマライゼーションのあり方を探っていく道だと思います》
このように感じられたのはなぜですか?


『いつでも元気』という医療雑誌からの注文を受けて取材に行きました。「人間復興」というテーマで書いてくれ、という注文でしたね。しかし、一生懸命に元患者たちを支援している人たちの中に入ると、身の置き所がないという感じでした。雑誌側の注文は、(元患者のいる)療養所を一つずつ回って書いてほしい、ということでしたが、とてもそんなことはできない。まず、友人をつくろうと考えました。

 

ちょうど2001年、らい予防法は違憲であるとの熊本地裁判決が下されたころでした。僕は憲法問題については僕なりの考え方をずっと持っていましてね。憲法があっても自由にゆがめていける国民とは何だ、と思っていたのです。昭和28年という戦後の自由な空気のなかで、人権問題が高まった時期に「らい予防法」が制定されたのですから。

 

《注》2001年5月の熊本地裁での違憲判決を受けて、当時の小泉純一郎首相は、控訴断念を表明する以下のような内閣総理大臣談話を出した。
「我が国においてかつて採られたハンセン病患者に対する施設入所政策が、多くの患者の人権に対する大きな制限、制約となったこと、また、一般社会において極めて厳しい偏見、差別が存在してきた事実を深刻に受け止め、患者・元患者が強いられてきた苦痛と苦難に対し、政府として深く反省し、率直にお詫びを申し上げるとともに、多くの苦しみと無念の中で亡くなられた方々に哀悼の念を捧げるものです。(中略)同時にハンセン病問題を解決していくためには、政府の取組はもとより、国民一人一人がこの問題を真剣に受け止め、過去の歴史に目を向け、将来に向けて努力をしていくことが必要です。私は、今回の判決を契機に、ハンセン病問題に関する国民の理解が一層深まることを切に希望いたします」

 

 

「政府がひどい、政治家がひどい」という言い方を一般的にするが、僕はもっとその根底にある、われわれの問題が大きいという気がします。(元患者の)この人たちをずっと取材していくと、いつも市民によっていわれのない差別を受け続けてきている。法律上は違憲判決で決着がつき、行政もパンフレットを配ったりしているけれども、それで差別がなくなるかというととんでもない。いまだに差別と偏見が継続しています。

 

もちろん支援する人たちは力でもねじ返していかなくてはいけないんだが、僕らにできるのは、日本人の根源的なものの考え方をたださないと・・・ただすことはできないかもしれませんけどね。

 

僕のように谷間の世代は、そうした事実があったことは残しておかなくてはならない。今の人のためではなく、いずれ同じような問題に直面した時に、根本的な人間のあり方を考え直す問題として。

 

――「谷間の世代」とは?

 

僕の言う「谷間の世代」とは、太平洋戦争中に義務教育を受けた世代のことです。「国民学校世代」と言った方がわかりやすいかも知れない。その中でも特に、日本の植民地だった朝鮮・台湾・満州の国民学校世代は全く特殊な体験をしています。

 

6歳から10歳までは人間の基礎感覚を身につける大切な時期です。昭和16年に、従来の「尋常小学校」が「国民学校」に改変されますね。戦争に備えて教科書も全面的に書き換えられました。社会的にも「子ども」というイメージがなくなり、「少国民」が正式の名称でした。当時の義務教育は国民学校6年、プラス高等科2年の8年制です。

 

僕が国民学校1年生になったのは、太平洋戦争が始まった4ヶ月後です。すでに高等科では軍事訓練が強制されていましたね。だから校舎の廊下には歩兵銃がずらーっと並べられていました。そして朝は地域ごとに集合して、年長の子どもが小隊長になって号令をかけ、兵士のように整列して登校するんです。

 

僕の育った街は、現在の韓国南岸にある鎮海という海軍基地の街です。日露戦争の時、バルチック艦隊を待ち受けるために建設された軍港の街です。だから、校歌も「大海戦の記念塔、健児九〇〇意気たかく……」などといった歌詞でした。そして明治節、紀元節、といった多くの祝祭日には「君が代」と「海ゆかば」を斉唱します。これを1年生から4年生までやっていたわけです。

 

そして、敗戦と同時に、日本人は侵略者として、現地の人たちから内地へ追い返されるわけです。そんな大混乱の中で、昨日まで「天皇陛下万歳!」と叫んでいた大人たちは、われがちに日本へ逃げ帰ります。わが家は父が硫黄島で戦死してましたから、母子5人取り残されますが、朝鮮人パトロールの青年たちが心配して面倒を見てくれました。

 

日本内地で育った子どもたちにとっては、戦争中のことは「あの頃はひどかった」程度で済む話でしょうが、朝鮮、台湾、樺太では朝鮮人、台湾人も日本国籍に編入されていましたから複雑です。「創氏改名」と言って、強制的に日本名を名乗らされていましたから、朝鮮人や台湾人の子どもたちにとっても、心の傷は大きかったはずです。

 

現在、日・中・韓の感情的ギャップが政治問題として賑やかに語られているけど、僕らからすると、歴史観の欠落した日本人のおしゃべりとしか思えない。

 

他人の言葉を理解すると言うことは、共通の基礎感覚があっての話で、人格形成の最も大切な時期に、日本人の知らない異文化圏の混乱に投げ込まれた世代は、それ以前の世代とも、それ以後の世代とも共通の言葉を持っていないと言うことになる。

 

植民地生まれの国民学校世代は、日本人でありながら日本人には理解しがたい人種と言うことになるね。特に戦後生まれの人にはとても理解できないでしょう。同じ社会の空気を吸って生きているけど、僕らは谷間の世代、闇の世代の申し子ということになる(笑い)。

川崎平右衛門の像(多摩流域リバーミュージアムのHPから)
川崎平右衛門の像(多摩流域リバーミュージアムのHPから)


――さて、現代座の新しいプロジェクトとして、18世紀の前半、府中押立村の名主で、武蔵野台地の新田開発を主導したり、玉川上水べりにヤマザクラ2000本を植えたりした川崎平右衛門(へいえもん)という人物を取り上げようとされているそうですね。このきっかけは?

 

きっかけは、小金井小次郎なんです。公民館の「高齢者いきいき活動講座」で、小金井小次郎をやってほしいという依頼がありました。「ええ、俺がやくざの親分の話を書くのか」と最初は戸惑いもあったのですが、調べていくとそんな単純な話ではないことが分かりました。

 

ご存じのように小金井小次郎は、幕末期の大侠客。遠島先の三宅島で島民のために尽くし、後世まで人々に慕われた人です。

 

あの頃のやくざというのは暴力団ではなく、早く言えば幕府の支配力が弱くなった時に村を自衛する自警団なんだよね。それがいつの間にか暴力団にようにすり替えられたから、百姓自身による近代化への闘いの歴史は抹消されてしまった。

 

「サムライではない、支配階級ではない人の生き方として小次郎をやってみよう」と考えました。タイトルは『揺れる時代を生きた小金井小次郎』です。島流しにあった小次郎は、島民と流刑者とを融和させながら井戸をつくります。被支配階級の出自の男が、ある時代状況のなかで、三宅島のような状況にぶつかり協同によって乗り越えたという話しです。だからテーマはこれも「協同」なんです。

 

支配階級の話はみんながやるから、僕は自分の使命としては谷間の世代にしか気が付かないことをそういう形で、取り上げていくことだと思っています。

 

その小金井小次郎の語りを、NPO法人「シニアSOHO小金井」の代表の方が見て、「川崎平右衛門をやってくれないか」と言われたのです。

 

 

いやあ、平右衛門も調べるのが大変だけどね、2010年から勉強会を始めたから、もう足かけ4年やっていますね。調べていくうちに再評価されるべきだという気持ちになってきました。

 

ただ、どうしても業績だけが語り継がれていくから、なんか人間のにおいがしないんだよね。そこが今、苦労しているところです。でも、史実にないウソをつくるわけにはいかないからね(笑い)。

 

小説だったら虚実まじえて話を展開できますが、それはできない。一方、芝居の強みは、俳優と観客の「共鳴」をつくるということなんですね。できることなら、あまり教科書的ではないやり方はできないかなあと思っています。
(終わり)

 

こがねいコンパス第47号(2014年3月3日更新)

 

木村快(きむら・かい)さんのプロフィール
1936年2月、日本が植民地支配をしていた朝鮮半島の大邱で生まれ、敗戦までそこで育つ。広島で中学卒業後、建設業や印刷業の仕事に。1958年にNHKの「青年の主張全国コンクール」で第1位となる。周囲の期待と自分の実像との調和に苦しみ、定時制高校を中退し、東京へ。友人に誘われ、新制作座の舞台を見たことがきっかけとなり、演劇の世界に入る。1964年秋に新制作座を解雇される。翌年3月、新制作座を解雇された仲間たちとともに「統一劇場」を創設し、小金井市を拠点とする。
1975年、山田洋次監督が、岩手県の過疎の村で若者たちが劇団公演を計画し成功させるまでを描く映画「同胞」(はらから)を制作し、公開。「統一劇場」がモデルとなり、公演シーンも演じた。1990年、 創立25周年を契機に「人間が直接人間に働きかけ、同時代に生きる者同士のきずなを共鳴させる劇場の創造」をめざして、劇団名を「現代座」に。

 11月8日(日)

  第73号の主な内容

(随時更新されます)

《市政の焦点》

■12月小金井市長選特集

☆白井とおる市議が立候補表明(2015年11月8日更新)

 

☆白井市議の立候補記者会見に40人以上の市民が参加(2015年11月8日更新)

 

☆4陣営の対決構図に 財政健全化への具体策が焦点(2015年11月8日更新)

 

≪酒好きのたわごと≫

その15 越後の酒と謙信(2015年10月17日更新)

  うれしいニュース!

 公益社団法人「全国学校図書館協議会」が発行している「としょかん通信」(中・高校生版)2015年6月号の《今月のブックトーク》に『まちの力 ひとの力 ――変える 試みる 小金井の人たち』がとりあげられました。

 1人でも多くの中学生、高校生にこの本を読んでもらえたら、と思います。感想文も送ってもらえると、とってもうれしいですね。

 以下にその部分を貼り付けました。筆者は、ほそえさちよさんという子どもの本の編集者だそうです。タイトルは、「生きるために つながる」。

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全体はこちらから
としょかん通信「今月のブックトーク」.pdf
PDFファイル 5.3 MB

こがねいコンパスのインタビューシリーズ《変える 試みる 小金井の人たち》をまとめた本『まちの力 ひとの力』が図書出版クレインから刊行されています。ウェブ版では読めない、取材秘話などを明かす4本の「エピローグ」と、やまさき薫さんの素敵なイラスト付き。定価1500円+税です。市内の各書店でお買い求めください。クレインでも注文できます。

毎月第1・第3土曜日が定期発刊日です。こがねいコンパスは市民のための羅針盤を目指し、市民とともにつくる地域メディアです。ご意見・ご感想・情報提供などを、koganeicompass@gmail.comへおねがいします。

詳しくはイベントカレンダーのページをご覧ください。こちらから。

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小金井市のイベント情報は、小金井市地域情報サイトのさきナビでも見ることができます。バナーをクリックしてください。

 この人に聞く

脱原発社会への道筋を探る

民間の英知を結集して「脱原子力政策大綱」をまとめる「原子力市民委員会」の舩橋晴俊座長。

前編はこちらから。

後編はこちらから。

*船橋晴俊さんは2014年8月15日、くも膜下出血で急逝されました。ご冥福をお祈りするとともに、船橋さんの思いを少しでも多くの方に知って頂きたいと願っています。(編集長・佐藤和雄)

 

「敗北」を語る

民主党小金井支部幹事長

村山秀貴さん

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後編はこちら

 

イラクから問い続けてきたもの

映画監督・鎌仲ひとみさん

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