変える 試みる 小金井の人たち  file25-1

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「NPO現代座」代表/脚本家・演出家 木村快さん(前編)

 

 「監督にとってもっとも大切な能力は、人を組織することなのだが、その点について、ぼくは木村さんに、そして木村さんの仲間たちにどれだけたくさんのことを教えてもらったか分からない」

 

 『男はつらいよ』シリーズで知られる映画監督・山田洋次さんがこう語る「木村さん」とは、前身の「統一劇場」から半世紀にわたって小金井市を拠点に演劇活動を続けてきた木村快さんのこと。

 「木村快さんという人に逢えたことは、ぼくにとって大変な幸運だった」

 

 日本を代表する名監督にそこまで言わせる木村快(かい)さんとは――。

今年上演される「約束の水」のチラシから
今年上演される「約束の水」のチラシから

 

――仕事として演劇に関わられたのは22歳のころ、1959年からと聞いています。そこに至るまではどのような歩みを?

 

1959年か・・・。そうですね、新制作座の研究所の試験を受けて、演出部に配属されたのがその年でしたね。

 

僕は、植民地時代の朝鮮半島の大邱で生まれ育ちました。敗戦によって日本へ引き揚げるのですが、父親は硫黄島で戦死しています。ほとんど一家離散のような状態での引き揚げでした。母とともに福岡の炭鉱町で暮らしていましたが、翌年には僕だけ広島の祖父のもとに引き取られます。

 

僕は国民学校世代です。戦後は教科書もなく、広島市は原爆で焼け野原でしたから校舎もなく、新制中学の校舎が出来たのは二年生の時でした。そんなわけで、僕の実感としては「学校がなかった時代」でした。

 

学校では、まともな教育を受けていません。そういう意味で社会常識が欠落しているんですよ。だからよく誤解されるんだよね(笑い)。

 

学校でまともな教育をうけていないと、社会的にはまず公務員にはなれません。当時は、中学校を卒業すると60%ぐらいが社会に出ていたんだね。高校に行かないというのはどうということはないのだけど、高校に行かない子どもたちは商店の住込みとか、職人になります。中学の同級生で非常に優秀なやつは、広島だから今の「マツダ」である東洋工業とか、三菱重工に行くんですよ。僕らは対象ではなかったです。

 

――木村さんは、中学を出ると大工の弟子として住みこみで働かれていたとか。

 

うちの一族は建設業です。爺さんが宮大工だったせいもあるけど・・・まあ、大工の徒弟生活は、ひどかったね。ぶっ叩かれながら育てられるわけですから。何か、気に食わないことがあると、その辺のものでぶっ叩かれてしまう(笑い)。

眞山美保さん(新制作座のホームページから)
眞山美保さん(新制作座のホームページから)

 

――演劇へはどのようなきっかけで?

 

よもや演劇の世界に入るとは思ってもいなかったのですが・・・。ただ、当時、新制作座の創設者である眞山美保さんの『日本中が私の劇場』という本が当時、ベストセラーになっていて、「ええ、こんな世界もあるんだ」という印象をもっていました。

 

それと、大工の弟子を辞めて、広島で日当400円の日雇い仕事をしている時、「桜隊」という広島の原爆で被爆した劇団の殉難碑を建てる仕事をたまたまやったんですね。殉難碑には発起人の杉村春子さんの名前もありました。新制作座の創設者の一人である槇村浩吉さんの奥さんであった園井恵子さんもそこで亡くなっているのです。

 

《木村さんは、日雇いの土木作業員の仕事をやりながら、定時制高校に通った。3年生の秋、NHKの「青年の主張全国コンクール」に出て、全国一位になる。受賞後、周囲の高い期待と実際の自分をどう調和させるかに苦しみ、高校を卒業しないまま、東京へ向かう。》

 

東京へ出て(簡易宿泊街のある江東区深川の)高橋で、日雇いの仕事をしていました。ある日、友だちが「面白い芝居があるから見に行かないか」と誘うので、読売ホールで新制作座の芝居を観たんです。

 

その時もらったパンフレットをみると、劇団の創設者の奥さんが「桜隊」の一員として広島で亡くなったことなどが書いてありました。「あの人の奥さんがあそこで死んだのか」という、親近感を覚えました。

 

その後、「劇団に遊びに行かないか」と友だちに誘われ、普通だったらそんなところに行かないのですが、そういう親近感があったから行ったのだと思います。

 

劇団では、ちょうど裏方さんたちが旅芝居の準備をしていました。舞台で使う昔風の木の角火鉢を一生懸命つくっているんだけどうまくいかない。見ているうちにまどろこしくなって、「ちょっと手伝いますよ」と言って組み立ててあげたんだ。そうするとみんなびっくりして、「あんた大工さんか。裏方の仕事をしてくれないか」と言われ、それで劇団の手伝いをすることになったというわけです。

 

新制作座には1959年に入ったことになっているんだけど、実はその前年からそんな裏方の仕事を手伝っていたんですよ。そうしたら劇団の主宰者である眞山美保さんが「(劇団に)入りなさい」と言ってくれたんですが、こちらはなかなか決心がつかなかった。

 

1959年1月に新制作座が大学教授クラスを講師にした演劇研究所を創設しました。新劇界では異例のことでした。演劇の勉強ばかりではなく、哲学など社会科学について学ぶわけですから。研究所には、正規ではなくて補欠の研究生として入りました。

 

その当時は、前進座と新制作座だけが、自力で地方を巡演できる、企業としての劇団でした。他の文学座とか俳優座とかは、一般の劇団員は舞台の役がつけばギャラがもらえるというようなものでした。

 

日本の新劇運動は戦後盛んだったんですが、職業化された劇団というのはほとんどなかったんです。だからみんなテレビや映画で稼ぐようになり、いつの間にかそっちが本業となり、新劇は消滅していくという過程をとるわけです。


――ご自身の本によると、新制作座の芝居を見るよりも前に一人でイプセンの『人形の家』を見に行き、途中で寝てしまったとか。

 

そうそう、劇団民芸のね。その時、たまたま主役が轟夕起子(とどろき・ゆきこ)さんという女優だったんですね。「轟夕起子だったら、映画で知っているから見に行ってみるか」と思って出かけたんだけど、これが全然面白くない(笑い)。いや、僕に舞台を鑑賞する力がなかったんです。

 

――それよりは新制作座の方が面白かったんですか?

 

新制作座はプロなんですよ。たえず地方で、普通の生活者を相手にちゃんと芝居をやっているわけですから。民芸や俳優座と言えば、知識階級の演劇ファンや演劇の勉強をしたい大学生が見に行くぐらいなもんです。

 

これは演劇観の分かれるところです。芸を個人の鑑賞能力の対象にするのか、それとも生活者の心の共鳴の場として、実際の劇場の楽しさを大切にするのか、明治以来、近代劇運動の中でも真っ向から対立する二つの考え方です。

 

あの頃の演劇界の若者たちの間では、地方巡演は、「都落ち」と呼ばれていました。「お前ら、東京じゃできないだろう」と。

――地方巡演というのは印象がよくない?

 

良くないんだね。若者たちは有名になりたいから東京でやりたい。地方へ行くやつは旅芝居で都落ちだという感じでした。僕の仲間たちはそれでずいぶんと憤慨していてね。なにせこっちはハイレベルな社会科学を勉強していたからね。今振り返っても相当なレベルだと思うんだけど、あれが結局、大成できなかった。それは、劇団側の問題というよりも日本の文化状況の崩壊現象かとも思うんだけども。

 

――新制作座にいらした木村さんが、小金井を拠点にした「統一劇場」をつくることになったのはどのような経緯ですか?

 

新制作座では、僕はみんなからいつも離れていて「アウトロー」と呼ばれていました。

 

あの頃、新劇に入る人たちはみんな大学で演劇をやっていました。多かったのは早稲田、慶応、日大芸術部の連中でしたね。そういう人たちと僕とは違うんですよ。たまに一緒に飲みにいっても話が通じない。だから話すのがおっくうになってくるわけです。僕らのように職人の中で育ってきた人間とは言葉が通じないんです。

 

劇団の中では、普通、「○○さん」と呼ばれるのですが、僕だけは後輩の女の子からも「快(かい)くん」「快(かい)くん」と呼ばれていましたね。半分は親しまれていたからだと思いますが、半分は「同じではない」という思いがあったのではないでしょうか。

 

僕もそこに長くいるつもりはなかったから、(劇団の取り組みを)傍からみていました。ところが指導者からみると、すごくそれが気になったんでしょね。演劇というのは、集団芸術です。それなのに、一人だけ変な奴がうしろの方にいるというのは・・・。

 

逆に言うと、すごく気にされて、何かと呼ばれて小遣いをもらったり(笑い)。僕は機械いじりが好きなこともあって真空管アンプなどを組み立てたりしていたんだよね。テープレコーダーが一般化していない時代でしたので、芝居の音響効果はレコードでやっていて、音響屋さんは特注したレコードをつかって芝居の進行をみながら音を流していました。

 

ある時、音響屋さんが病気で倒れて、どうしようという騒ぎになった時に、「あの、テープレコーダーを使ったらどうですか」と言いました。「どうすればいいんだ」というから、「秋葉原でみつくろってきます」と。それで音響システムをレコードからテープレコーダーに変えたんです。そしたら僕は、文芸部から音響係にされてしまった。

 

僕は、非常に特殊な存在でしたね。何かのときには「おい、快くん、たのむよ」と言われますが、重要な会議とか芸術的な会合には絶対に呼ばれないという・・・(笑い)。

 

ある日、ホリゾント(劇場のステージ奥に設けられた壁)の裏側にいると、「カイはなあ」という声が聞こえる。あれ、俺のことを話しているなと思って聞いていると、「カイは大衆だからなあ、無理じゃないか」という(笑い)。その言葉が、すごく気になりましたね。

 

あの頃は左翼全盛の時代ですから、学生たちには「世の中を変えるには知識のない大衆を導かなければならない」という指導者意識が強かったようです。

僕は流浪の生活を続けてきたから、25歳まで選挙の投票に行ったこともありませんでしたしね。

 

僕はあまり深い事情が分からず、劇団内の共産党員に頼まれて、赤旗の日曜版の購読を後輩たちに勧めたんですね。あのころ120人ぐらいの劇団になっていたんだけど、55部も拡張したんですよ(笑い)。これが後で大問題になってね(笑い)。

 

1962年の暮れ、緊急に全体集会が開かれ、僕は劇団の幹部から「あなたはいつから指導者になったのか」と厳しく批判されました。

 

――何が幹部たちの逆鱗に触れたのですか。


 安保闘争の直後ですからね、若者たちが舞い上がって、演劇の話より政治の話に夢中になる傾向があったからです。そこで上層部は「背後で木村が煽っているのではないか」と疑ったわけです。僕は公演をする班からも外されてしまい、さらに翌1964年の東京オリンピックの頃にクビになりました。

 

僕としては、「いい機会だから演劇とは縁を切ろう。次の仕事はなにをしようかな」と思っていました。ところがその年のクリスマスになって「快さん、大変なことになったからちょっと来てくれ」というのです。行ってみると、70人の劇団員が「明日から来なくていい」と即日解雇されたという。

 

――木村さんにシンパシーを持っていた人たちですか?

 

僕はアウトローですからグループはつくりません。何人か親しい仲間はいました。


劇団は当時、180人にもふくれあがっていて、経営的にも縮小して再編成する必要があったようです。聞くところによると、一人一人査問をして、劇団への忠誠度を確かめたようです。

 

新制作座は全国巡演に特化した企業ですから、全寮制で、生活のすべては劇団任せでした。

 

だから、解雇された連中は寮を追い出されて、みんな右往左往してるわけです。

僕は10代から一人で生きてきたから、「まずは住むところを見つけるんだな」とアドバイスして、当面どうするかについては、みんなと一緒に新制作座労働組合の上部団体である舞台芸術家組合や映画演劇総連合に陳情に行きました。

 

――新制作座の解雇理由は?

 

表向きは非芸術的であるという理由ですね。演劇活動は集団的な芸術活動ですから、芸術的才能のない者は要らないし、指導部に不満のある者は当然やめるべきだということです。


しかし、新制作座は単なる芸術集団ではなく、180人の従業員を抱えた企業集団ですから、労働問題が発生します。舞台芸術家組合は「解雇するならそれなりの手当てをすべきだ」と仲介に立ったのですが、だめでした。

 

この事件は社会問題として新聞や週刊誌で報道されましたから、僕はその騒動の中で、新劇界の重鎮からも批判され、いつのまにか「アカの親玉」と言われるようになってしまった。

 

だけど、僕が責任者になったのは、僕がみんなを指導したからじゃないんです。

 

解雇されたのは俳優だけではなく、専属の裏方も照明屋も、輸送担当者も、食堂のコックもいます。また、芸術上のさまざまな流派・グループがあります。突然生まれた寄せ集め集団ですから、それをまとめて行くにはどのグループとも話の出来る人間が必要になります。その点、どのグループにも属していなかった僕が適任だったのかも知れません。

 

組合の上部団体から「争議団は一人でも欠けたら負けだ」などと言われたら、「だったら俺がやる」という人間はいないですよね。

 

結局、「快くんがいいよ」「快くん、頼むよ」という話になって、つまり、とっさの便利屋として失業者集団の代表になったわけです。

 

あの当時、芝居をやる人間は社会一般から隔離された生活をしていましたから、どうしても集団として固まってしまいます。とにかく経験を生かして、集団で旅公演をしていくことになりました。解雇された人間はもともと統一したこころざしを持っているわけではありませんから、まさに「呉越同舟」、寄せ集め集団です。

『統一劇場』というのは、様々なグループが統一してやっていこう、という思いから付けた名前でした。

 

――木村さんの自著によれば、ユリウス・バップが『演劇社会学』で述べている「観客との一体化、劇場の統一性の回復を目指したもの」と説明されていますが。

 

はい、『演劇社会学』を手元に持っていたので、これはちょうどいいやと(笑い)。みんなはそんな演劇論は知らないからね。

 

僕は労働組合向けには「様々なグループの統一をめざすものだから応援して欲しい」とお願いし、こちらをアカ呼ばわりする人々にはユリウス・バップの劇場統一論で対抗するという、使い分けをしていましたね。事実、統一劇場は劇場論の立場で作品をつくり、全国を巡演しました。

 

ただ、スタートの時期、僕は演劇をやるつもりはなかった。だから期限をつけたんです。初めは争議団の結末がつくまでという条件です。

 

統一劇場が1965年にできたあとも、「3年は成り行きだからやるけど、俺はずっとはやらないよ」と言っていたのです。

 

(続く)

こがねいコンパス第45号(2014年2月1日更新)

木村快(きむら・かい)さんのプロフィール

1936年2月、日本が植民地支配をしていた朝鮮半島の大邱で生まれ、敗戦までそこで育つ。広島で中学卒業後、建設業や印刷業の仕事に。1958年にNHKの「青年の主張全国コンクール」で第1位となる。周囲の期待と自分の実像との調和に苦しみ、定時制高校を中退し、東京へ。友人に誘われ、新制作座の舞台を見たことがきっかけとなり、演劇の世界に入る。1964年秋に新制作座を解雇される。翌年3月、新制作座を解雇された仲間たちとともに「統一劇場」を創設し、小金井市を拠点とする。

1975年、山田洋次監督が、岩手県の過疎の村で若者たちが劇団公演を計画し成功させるまでを描く映画「同胞」(はらから)を制作し、公開。「統一劇場」がモデルとなり、公演シーンも演じた。1990年、 創立25周年を契機に「人間が直接人間に働きかけ、同時代に生きる者同士のきずなを共鳴させる劇場の創造」をめざして、劇団名を「現代座」に。

『約束の水』上演にあたっての木村さんのメッセージ
『約束の水』上演にあたっての木村さんのメッセージ

 11月8日(日)

  第73号の主な内容

(随時更新されます)

《市政の焦点》

■12月小金井市長選特集

☆白井とおる市議が立候補表明(2015年11月8日更新)

 

☆白井市議の立候補記者会見に40人以上の市民が参加(2015年11月8日更新)

 

☆4陣営の対決構図に 財政健全化への具体策が焦点(2015年11月8日更新)

 

≪酒好きのたわごと≫

その15 越後の酒と謙信(2015年10月17日更新)

  うれしいニュース!

 公益社団法人「全国学校図書館協議会」が発行している「としょかん通信」(中・高校生版)2015年6月号の《今月のブックトーク》に『まちの力 ひとの力 ――変える 試みる 小金井の人たち』がとりあげられました。

 1人でも多くの中学生、高校生にこの本を読んでもらえたら、と思います。感想文も送ってもらえると、とってもうれしいですね。

 以下にその部分を貼り付けました。筆者は、ほそえさちよさんという子どもの本の編集者だそうです。タイトルは、「生きるために つながる」。

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全体はこちらから
としょかん通信「今月のブックトーク」.pdf
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こがねいコンパスのインタビューシリーズ《変える 試みる 小金井の人たち》をまとめた本『まちの力 ひとの力』が図書出版クレインから刊行されています。ウェブ版では読めない、取材秘話などを明かす4本の「エピローグ」と、やまさき薫さんの素敵なイラスト付き。定価1500円+税です。市内の各書店でお買い求めください。クレインでも注文できます。

毎月第1・第3土曜日が定期発刊日です。こがねいコンパスは市民のための羅針盤を目指し、市民とともにつくる地域メディアです。ご意見・ご感想・情報提供などを、koganeicompass@gmail.comへおねがいします。

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