変える 試みる 小金井の人たち  file22-3

変える 試みる 小金井の人たち file22-3

狭山事件から50年
 ドキュメンタリー映画『SAYAMA 見えない手錠をはずすまで』を制作したプロデューサー・陣内(じんのうち)直行さん

 

2013年10月31日、東京・一ツ橋の日本教育会館大ホール。半世紀にわたり無実を訴え続ける石川一雄氏とその妻の日々を描くドキュメンタリー映画が一般公開された。この日に完成した映画のパンフレットの制作でも、上映会の受付などスタッフでも、多くの小金井市民がボランティアとして働いた。映像作品のプロデューサーとして、地域を変える市民運動の担い手として、彼は人の内側にある熱い思いを引き出していく。

 

 

(3回連続インタビューの最終回です)

 

 

――大学を卒業して、岩波映画製作所(*)に就職されました。岩波映画を選んだのは?

 

学生運動をやっていて、授業にはほとんど出ていませんが、就職をどうしようかという状況のときに、たまたま、岩波映画が募集をしているのを知ったのです。そこだけとりあえず、12月か1月でしたが、受けに行ったんですね。

 

*岩波映画製作所:北海道大学の中谷宇吉郎教授、岩波書店の小林勇らによって新しい科学映画を製作することを目的に設立された。羽仁進、黒木和雄や、評論家の田原総一朗、保守派の論客である入江隆則ら多くの人材を輩出した。1998年に倒産。岩波書店とは資本関係はない。

 

――募集はどこで知ったんですか?

 

大学の掲示板です。プロデューサー業務を募集とありました。何の仕事かさっぱりわからなかったんですが、魅力的だったのは出勤時間が午前9時半だったんです(笑い)。あとは映画会社だからジーンズで行けるかどうかはわかりませんが、ネクタイは締めなくてもいいだろう、学生時代の格好で出勤できるんじゃないかって考えていました。そんな程度ですね。

 

――入ってみてネクタイは締めなくてすんだんですか?

 

最初が大事でしたね。締めないで(会社に)行ってしまいました。さすがにジーンズははかなかったですが、ネクタイは締めず、結構、ラフな格好で行ったんですが、注意をされることはありませんでした(笑い)。

10月31日、映画の完成記念上映会であいさつをする。ジーンズ姿の、いつもながらのラフな格好
10月31日、映画の完成記念上映会であいさつをする。ジーンズ姿の、いつもながらのラフな格好


――採用されたのは1人だけ?

 

いえ。僕と同じプロデューサー職が3人、カメラマンが1人、企画畑が1人でしたね。ちょうどあの・・・。岩波映画というのは、外からみると社会派ぽいドキュメンタリーをつくっているように思われるかもしれません。恐らくそれは、(岩波映画出身の)土本典昭さんとか小川紳介さんのイメージが重なっているのでしょう。しかし、実際には1970年の大阪万博で大儲けをしたんです。大儲けというか、会社を立て直したというか。そして、久しぶりに新人を採用したわけです。

 

――入社されたのは、大阪万博の翌年の1971年ですね。

 

そうそう。大阪万博のパビリオンの映像を多く手掛けたことによって、崩れかけた会社を立て直したのが、ちょうど僕が就職した年でした。

 

――当時、岩波映画の社員は何人ぐらい?

 

今でいう正社員が150人ぐらいでしたか。フリーの人がたぶんそれと同じくらいはいたと思います。

 

――岩波映画に入られたのは、映画が好きだったからですか?

 

「映画が好きで岩波映画に入ったんじゃない」と、公言しています(笑い)。「そんな俺でも、これだけがんばっているんだ。好きで入ったやつは何をやっているんだ」と続くのですが(笑い)。

ただ、学生時代には放送研究会の報道部に所属していました。「録音構成」というのをつくっていたんですよ。

 

――録音構成?

 

音によるドキュメンタリーとでも言いましょうか。録音する題材は学内での闘争などのテーマを取材をしたり、学園祭の特別企画のために、何人かで沖縄に行ったり。当時は、沖縄返還前でコザ暴動(*)があった時代でした。

 

*コザ暴動:1970年12月20日未明、沖縄・コザ市(現沖縄市)中心部で、米兵による交通事故が続いたことをきっかけに発生。群衆が米軍関係車両を焼き打ち。嘉手納基地にもなだれ込み、基地内の学校に火を放った。暴動は朝まで続き、車両82台が炎上、米国人と沖縄の住民88人が負傷し、計21人が逮捕された。ベトナム戦争の中で、沖縄の米軍による犯罪が多発したが、住民の多くが泣き寝入りをせざるをえない時期が長く続き、その不満や怒りがたまっていたという。

 

――ラジオのドキュメンタリーのようなものですか?

 

そうです。大学ごとに放送研究会がありました。実験的な録音構成をつくる動きなどがあって、結構面白かったですね。

 

――岩波映画でドキュメンタリーをつくるというのは、ある意味、録音構成づくりの延長線のようなものだったわけですね。

 

ただね・・・。先ほど言ったように万博で儲けたあと、岩波映画は企業のPR映像づくりにどーんと傾斜していくんですよ。それは入ってから分かったんですね。サントリーのPR映画とか、川崎製鉄のPR映画とか、そういうのをずーと、延々とつくっていましたね。

 

――面白くなかったんじゃないですか?

 

面白くありませんでした。ただ、映画づくりについてはすごく勉強になりましたので、それはそれで役に立ったわけです。一方で、欲求不満がたまり、岩波映画が衰退していく過程で、外にでようと思い始めたわけです。

完成記念上映会の直前。ホールのロビーで動き回る
完成記念上映会の直前。ホールのロビーで動き回る

――プロデューサーとして一緒に仕事をした映画監督で、影響をうけた方は?

 

当時、岩波映画には女性監督が2人いました。羽田澄子さんと、時枝俊江さんです。一般的に良く知られているのは『薄墨の桜』や『早池峰の賦』を撮った羽田さんですが、時枝さんが岩波映画の定年になる直前、55歳ぐらいから僕と一緒に仕事をする機会が多かったんですね。

 

僕は時枝さんから一番学びました。人間との接し方、人間関係の作り方、怒られつつ、優しく教えてもらって、(監督として)「誰か1人の名前を挙げなさい」と言われると、時枝さんの名前を挙げます。別に羽田さんがどうというわけではないんですが、時枝さんの影響を受けたということですね。彼女と一緒に仕事をしたという経験なかったら、僕はそんなに映画にこだわることなく生きていたと思います。

 

――岩波映画時代に制作した作品で「これは良かったなあ」というものは?

 

難しいですねえ・・・。やってきたことは企業のPR映画がたぶん6割ぐらいかなあ。岩波映画にいた時期の後半では、時枝さんと組んでやった文京区がスポンサーとなった文化財映画とかが面白かったですね。それ以外は、テレビ番組が多かったですね。『野生の王国』とか『中村敦夫の地球発』(いずれもTBS系列)とか。トータルで400から500本ぐらいはつくったんじゃないかな。

 

*1988年に公開された『ぶんきょうゆかりの文人たち ~観潮楼をめぐって』(38分、16mm)は、監督・脚本が時枝俊江さんで、制作が陣内さん。文京区本郷にあった森鴎外の書斎「観潮楼」に出入りしたり、手紙をやりとりしたりした多くの文学者たちとの交友と、明治の文学界のありさまを、文学者たちの手紙や日記によって描く。1988年度キネマ旬報文化映画ベストテン第1位となったほか、同年の教育映画祭優秀作品賞・文部大臣賞・文化庁芸術作品賞を得た。

 

(国立科学博物館のウェブサイトから)
(国立科学博物館のウェブサイトから)

――『ヒロシマナガサキ 核戦争のもたらすもの』というドキュメンタリー作品もありますね。

 

プロデューサーの助手をしていた期間が10年近くありました。当時はフィルムの世界だったので、演出にしてもカメラにしても10年ぐらいは助手の時代があるんですね。ちょうど僕が一本立ちをするかどうかぐらいの時に、広島・長崎の核の被害を科学的に映像化できないかという話が来て、そのプロデューサーをやりました。

 

――ニューヨークの国連本部でも上映されたとか。

 

国連で上映をするためにつくられた作品なんです。国内でも評価され、各地で上映されました。

 

――1989年に岩波映画製作所を退社されたのは?

 

赤字がかなり大きくなっていたので、水道橋の本社ビルを売却して再スタートを切ろうとい時期でした。希望退職募集があったので手をあげたのです・・・。組合の委員長もやっていたので、まあ、そう単純な話でもないんですが。

 

――退社後につくられた制作会社「アズマックス」(Azmax)は希望退職での割増退職金を元手に?

 

そうです。4人でつくったんです。もらった額にあわせてそれぞれ出資しました。

 

――アズマックスという名前の由来は?

 

辞めても岩波映画の看板を使おうという人が多かったんですが、僕らは岩波映画を辞めておきながら、(その名前を)利用するのはどうかなと考えて、まったく関係のない名前にしようとしたんです。

 

4人のうち一番若いやつに考えさせて「アズマックス」となったんです。「名前の最初が『ア』だと、電話帳の一番最初にくるからいいらしいですよ」「そうか、じゃあ、『ア』で始まる名前を考えろ」とか言って(笑い)。

 

それで「A to Z」、つまりAからZまでなんでもやる、最高にやるということでAzとmaxをくっつけて、Azmax(笑い)。(名前をつけたのが)バイク好きのやつで、「なんとかマックスというのがあった」とかも言っていましたね。まあ、思いつきの名前ですが、それだとだれも岩波映画とは想像がつかないからいいんじゃないか、と。

 

――アズマックスでは役員をやっていたのですか?

 

会社を立ち上げた4人は、50代の人、40代の僕、30代の人、それにフリーで岩波映画に契約していた20代の女性という構成でした。30代は岩波映画の色にあまり染まっていないから、最初は彼を社長にしました。

 

――現在は?

 

僕は監査役です。30代が社長になったあと、僕が50歳までは社長を引き受けていました。7、8年ぐらいかな。そのあと、取締役になり、今は監査役(笑い)。

 

――アズマックスではどんな映像作品を制作していたのですか?

 

アズマックスの仕事は、NHKのテレビ番組の制作が8割から9割ぐらいだと思います。そのなかでも僕はテレビ番組をやりながら、ドキュメンタリーの映画を何本かつくっていました。

 

60歳ぐらいになって「もう、テレビの仕事はやりません」と言って、アズマックスの制作活動からはちょっと身を引いています。その一方、今回の映画のように、アズマックスの協力は得ていますが、独自に自分の責任でやっていこうかなと思っているんですね。

『SAYAMA 見えない手錠をはずすまで』の完成上映会であいさつをする石川一雄さん(右)。隣は妻の早智子さん。左が金聖雄監督
『SAYAMA 見えない手錠をはずすまで』の完成上映会であいさつをする石川一雄さん(右)。隣は妻の早智子さん。左が金聖雄監督

――さて、映画プロデューサーとしての顔のほか、小金井市では「市民自治こがねい」という団体の立ち上げに関わるなど、地域の政治活動に取り組んでこられました。「市民自治こがねい」はいつ発足したのですか?

 

漢人明子さん(*)が最初の市議選で当選した1997年ですね。

 

漢人明子さん:《変える 試みる 小金井の人たち》file17-1file17-2を参照。緑の党運営委員長。

 

――どういいう経緯で?

 

僕が小金井で市民運動に関わり始めたのが、在日外国人への指紋押捺問題でした。当時は在日の人たちは自治体の窓口で、外国人登録の切り替えの際、指紋押捺を強要されていました。人権侵害ということで、指紋押捺を拒否するという動きが全国に広まり、小金井でも運動がありました。

 

僕は、それまでは国政的テーマに関心があり、動いていたのですが、指紋押捺の運動を通じて自治体のあり方も変えていかなければと考えるようになってきました。そして、住民として税金も納めている在日の人たちが住民としての権利を国籍によって差別されていないかどうかを検証する作業に取り組んだのです。例えば職員採用での国籍条項を撤廃させましたね。

 

時期的にはアズマックスをつくった時から、より地域にのめりこんでいったということですかね。岩波時代は組合運動で時間を取られていましたが、アズマックスになってからはそれがまったくない。そして自分の制作会社なので自由さもあったりして、地域で活動するようになったのです。

 

あとは、子どもが生まれ、保育園に行き、学童保育所に行くというのは、特にお父さんにとっては社会経験の場ではないですか。保育料の値上げの問題があったり、学童の日常の活動があったり、地域で人間的な関係が広がっていったというのが大きいですね。

 

「地域をだれもが住みやすいところにしたいな」という普通の親が思うような気持ちも重なり、小金井で動く時間を割いて、人付き合いを始めていった、ということですね。

 

――「市民自治こがねい」が発足する直接のきっかけは?

 

小金井市で市民運動をしている人の中から市議会議員選挙に送り出そうという動きが、市民運動をやっている人たちから出てきて、一度挑戦したのですが、その時は残念な結果になりました。

 

この時は、僕は呼びかけられて参加する程度だったのですが、「なんか力を出し切っていなかったなあ」と感じたのです。一方で、力を出し切った人たちは「選挙はやっぱりいいや」という雰囲気もありました。

 

それでは、と思って僕が小金井市で市民活動をやっている人たちに――100人ぐらいだったでしょうか――返信用のはがきを入れて手紙を出したのです。1997年選挙の前年の9月ぐらいだったと思います。「選挙に候補者を出そうよ」と呼びかけました。結構、反応が良かったんです。前の選挙に関わった人以外にも出したためかもしれませんが、返信用のはがきに「一緒にやりましょう」と書いてくれた人が多かったですね。

 

ただ、候補者になってくれる人がいなくて、最後は自分自身が(選挙に)立つか立たないかという状況だったんですが、年が明けて1月末になって漢人明子さんが「出ます」と言ってくれたのです。漢人さんは、前の候補者の時の事務局長を務め、どちらかといえば選挙に「くたびれていた派」だったと思います。ただ、陣内さんのやろうとしていることにはどこかで協力したいと思って会合には出てきてくれていたのですが、自分自身が候補者になるということは考えていませんでした。最後の最後、だれも出ることなく不戦敗になるという状況になった中で、決断してくれたんですね。

 

そして、漢人さんが選挙で当選したのを受けて、「市民自治こがねい」としての態勢をつくったということです。

 

――指紋押捺から始まり、30年に及ぶ地域での活動を振り返るとどうでしたか? 長いインタビューのまとめに入ろうと思っているのですが(笑い)。

 

ははは。やっぱり、地域は面白い! 僕が今回の『SAYAMA 見えない手錠をはずすまで』を、みなさんのカンパでつくろうと考えて決断できたのは、《小金井の人たちの顔が浮かんだから》というのが、率直に言ってあります。

 

単におカネを出してくれるだけではなく、精神的に応援してくれる。あるいはちょっとボランティア的に手伝ってくれる人がいる――。これは小さなプロダクションよりも力があるなあ、と思います。

 

この(貫井南町の)事務所が今や、「東のジブリか、西のSAYAMAか」とは言われていませんが(笑い)、小金井に拠点を置こうと思ったのもそういう魂胆の表れですね。

 

地域で運動をやってきた過程で、「お互いさま」の関係が築かれ、「陣内が今度、自主映画を制作すをるのだったら応援しよう」と思ってくれる人がいたし、そういう人たちの気持ちに付け込んで(笑い)、決断できた。

 

そういう意味では非常に忙しいのですが、制作から上映に至るまでとても楽しいですね。広報・宣伝のためのシール貼りだとか宛名書きとかの作業にも、ちょっと声をかければ誰かが来てくれる。今度、都心で10月31日に完成記念上映会をするのですが、受付をはじめ30人ぐらいのボランティアの人が必要なんですね。普通のプロダクションだとおカネをはらってアルバイトを雇うのですが、みんな手伝いにきてくれるんじゃないかと思います。(*)

 

*このインタビューは10月初めに収録。完成記念上映会とイベントは、10月31日に日本教育会館大ホールで上映され、700人を超す聴衆が集まった。トークイベントには作家の落合恵子さん、漫画家のやくみつるさんが参加。受付や会場整理、パンフレット販売など多くの小金井市民のボランティアが手伝った。

 

――その意味では『SAYAMA』は、小金井の人たちの思いも込められた作品ですね。

 

そうですね。もう、本当に助かっています(笑い)。

 

(終わり)
こがねいコンパス第39号(2013年11月2日更新)

上映会とイベントが終わり、ほっとした表情を浮かべた
上映会とイベントが終わり、ほっとした表情を浮かべた

陣内直行(じんのうち・なおゆき)さんのプロフィール
1949年生まれ。大学卒業後、岩波映画製作所へ。1989年、番組制作会社のアズマックスを設立。会社代表などを経て、現在は監査役。制作した主な映画作品に『ヒロシマナガサキ 核戦争のもたらすもの』『あぶあぶの奇跡』など。テレビ番組では『野生の王国』(TBS系列)、『週刊ブックレビュー』(NHK-BS)。
小金井市中町に在住。小金井市では「市民自治こがねい」を発足させ、運営委員などを務めた。

 11月8日(日)

  第73号の主な内容

(随時更新されます)

《市政の焦点》

■12月小金井市長選特集

☆白井とおる市議が立候補表明(2015年11月8日更新)

 

☆白井市議の立候補記者会見に40人以上の市民が参加(2015年11月8日更新)

 

☆4陣営の対決構図に 財政健全化への具体策が焦点(2015年11月8日更新)

 

≪酒好きのたわごと≫

その15 越後の酒と謙信(2015年10月17日更新)

  うれしいニュース!

 公益社団法人「全国学校図書館協議会」が発行している「としょかん通信」(中・高校生版)2015年6月号の《今月のブックトーク》に『まちの力 ひとの力 ――変える 試みる 小金井の人たち』がとりあげられました。

 1人でも多くの中学生、高校生にこの本を読んでもらえたら、と思います。感想文も送ってもらえると、とってもうれしいですね。

 以下にその部分を貼り付けました。筆者は、ほそえさちよさんという子どもの本の編集者だそうです。タイトルは、「生きるために つながる」。

写真をクリックすると大きくなります
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全体はこちらから
としょかん通信「今月のブックトーク」.pdf
PDFファイル 5.3 MB

こがねいコンパスのインタビューシリーズ《変える 試みる 小金井の人たち》をまとめた本『まちの力 ひとの力』が図書出版クレインから刊行されています。ウェブ版では読めない、取材秘話などを明かす4本の「エピローグ」と、やまさき薫さんの素敵なイラスト付き。定価1500円+税です。市内の各書店でお買い求めください。クレインでも注文できます。

毎月第1・第3土曜日が定期発刊日です。こがねいコンパスは市民のための羅針盤を目指し、市民とともにつくる地域メディアです。ご意見・ご感想・情報提供などを、koganeicompass@gmail.comへおねがいします。

詳しくはイベントカレンダーのページをご覧ください。こちらから。

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脱原発社会への道筋を探る

民間の英知を結集して「脱原子力政策大綱」をまとめる「原子力市民委員会」の舩橋晴俊座長。

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*船橋晴俊さんは2014年8月15日、くも膜下出血で急逝されました。ご冥福をお祈りするとともに、船橋さんの思いを少しでも多くの方に知って頂きたいと願っています。(編集長・佐藤和雄)

 

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民主党小金井支部幹事長

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イラクから問い続けてきたもの

映画監督・鎌仲ひとみさん

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 『コンパス』は、羅針盤を意味します。辞書によれば原義は「ともに歩くこと」です。市民が市政をより深く理解するための一助となり、よりよい小金井市政のあり方を考えるときの羅針盤でありたい。市民のみなさんと一緒に歩んでいきたい。そんな思いを込めています。

 

 

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