変える 試みる 小金井の人たち  file15-2

世界を舞台に活動するパフォーマンス・アーティスト イトー・ターリさん

(後編)

 
パントマイムから始まった身体を用いる芸術表現の旅は、1980年代にヨーロッパでパフォーマンス・アートと出会い、新しい世界へといざなわれる。さらに1996年、彼女のアートへの考えを大きく変える出来事が起きた。

 

そこから彼女のテーマは、セクシャル・マイノリティ、在日朝鮮人、旧日本軍慰安婦、沖縄、福島へと広がっていく。

 

*写真は「放射能に色がついていないからいいのかもしれない……と深い溜息……をつく」から(2012年9月1日、 福岡アジア美術館で同美術館が撮影)

――パフォーマンス・アートへと至る芸術表現は、パントマイムから始まったそうですが、どのような経緯からマイムの世界へ?

 
1970年が私の大学1年生。学生たちは小規模ながらも校内でデモをしまくっていました。私は、絵を描いたりしていましたが、学生運動もノンセクトでちょっと関わっていました。ほんのちょっとですね。いつもベ平連の後ろにくっついて歩いているような人でした。

 

しかし、3年生ぐらいになると、抑圧されたり、陰惨な事件が起きたりして、学生運動も下火になりました。私はある事件を起こした人の救援活動をしていたのですが、それを学外のセクトが乗っ取ろうとしたので、運動をやめてしまった。

 

そんなことがあったので、もっと「自分が感じてやれること」をしたいな、と思うようになったのです。

 

その頃、私は、デザインをやりたいと望んでいたわけではないのですが、担当教員の小野雄一さんの話が面白くて「デザイン特別講義」というゼミに入りました。実技を勉強するゼミでしたが、私にとって面白かったのは、ものの考え方とか、すぐに役立つというものじゃないもの。

 

小野さんから見せてもらったのが、1920年代、30年代のロシア構成主義やバウハウスの図版でした。いろんなジャンルの人が一緒になってつくっている、楽しげな時代のものでした。その図版で見た、体を使った表現に面白さを覚えました。

 

パフォーマンスの後で観客たちとトーク
パフォーマンスの後で観客たちとトーク

――大学に入る前は身体表現とかは?

 
高校では美術部でしたが、身体表現は全然、やっていません。そういうタイプじゃないんです。見ていた図版も、「体がつくる造形」ととらえていたんです。

 

 

*和光大3年当時、ゼミの担当教員の小野雄一氏が研究室でみせてくれた図版に、ターリさんは心を奪われた。彼女は自著の『ムーブ あるパフォーマンスアーティストの場合』に、その時のことをこう書いている。

 

 


 

《ヨーロッパの新しい時代を開く自由な意志は画家も、音楽家も、振り付け師も、建築家も、詩人も一緒になってアートをつくる時代を運んだ。中でも、私が魅かれたのがバウハウスの仕事だった。 シュレンマーがデザインした造形物を身につけた人が、建築物の線や面や体積と絡みながら空間をつくる。美術、造形の中に人体が溶け込む空間。 私も身体が介入するアート空間をつくりたいと思い立った。》


――体をつかったアート空間に魅かれて、並木孝雄さんの「身体訓練教室」に行くわけですね。

 

絵画、立体に時間軸を入れる。つまり体が入って動けば、それだけの時間が生まれる。そういうのが面白いかな、と思ったんです。それで身体訓練教室に行ったんですね。


――マイムは面白かったのですか?

 

うん、面白かったですね。最初は体の使い方を学ぶのですが、全部(体を)分割して動かすのです。そういう考え方も初めてだったし、日本では体は一つと考えるけど、あっち(ヨーロッパ)は、分解して動かす。そういうことに新鮮さを感じました。


だけど、マルセル・マルソーのように3分間で人生を表すとか、そういうのはあまり・・・興味がなかったですね。マルセル・マルソーは詩情豊かな資質を持っていると思うのですが、私は、どちらかといえば抒情詩よりも叙事詩が好きという資質なので。

 

――『ムーヴ』の中でパントマイムは「あたかも物があるようにして見せる行為」と説明されています。ある意味で、見る人の解釈を限定するようなところがありますよね。

 

そうなんです。そこが窮屈になって(マイムをやろうとするのが)駄目になった。自分のスタイルを探し求めて行ったオランダでは当時、私が習っていたピエロ的なマイムはもうやっていませんでした。アムステルダムでは1人いただけ。あとはマイムと言いながら、全然違うのです。


空間のなかで人が倒れて起きたり。それも光と空間のコラボレーションだったり。ストーリー性があるものではありませんでした。

 

 

 

ハリーナ・ヴィテックについて(劇団のHPから)
ハリーナ・ヴィテックについて(劇団のHPから)

――オランダでは最初の1年、ハリーナ・ヴィテックさん率いるヘットクライン・パントマイムシアターに所属されたのですね。

 
ヘットクラインの作品は、抽象的な絵画のようでした。いわゆるパントマイムではないですね。

 

オランダの4年間で、パフォーマンス・アートに近くなっていった。そういう情報は得たという感じはあります。

 

アムステルダムはアメリカから見ればヨーロッパの出入り口のようなところでした。だからアメリカの人たちも来て、公演をして帰る。ローリー・アンダーソンとか、70年代からパフォーマンスで活躍していた人たちが来ていたのです。、刺激を受けましたね。

 

――会話はもっぱら英語ですか?

 

そう。最初は(語学力が)ひどいものだったので泣いていました。ただ、私の所属したところは無言劇で、身体だけでやるので言葉は関係ありません。だから、パフォーマンスに出演するということは問題なかったのです。それで(劇団に)いられたのだと思います。


――芝居だったら大変ですね。

 

無理ですね。

 

――小金井とのかかわりを聞きたいのですが、『ムーヴ』の中にこういう記述があります。「カナダからかえってきてすぐに、アンド―(安藤さん)が『小金井は良いよ』と誘ってくれたので移り住み、しかも保育の仕事に就くことが出来て、アート活動ができる態勢が出来た」。このアンドーという人は?

 
アンドーというのは、現在は認証保育園となっている「回帰船」の前施設長の安藤能子さんのことです。

 

1990年ころ、アジアフェミニストネットワーク(afa)というグループがあったのですが、そこで出会いました。アンドーさんは、準備出産のための「体のおしゃべり会」というのを、afaの事務局長と一緒にやっていたんですね。それでafaにも顔を出すようになっていたのだと思います。

 

カナダから帰ってきて、どこに住もうかと考えていたとき、「小金井は良いところよ」と言われて、移り住みました。1993年5月にカナダ・トロントで「メイワークフェスティバル」があり、それに参加した年の秋でした。

 

「回帰船」では、最初は「体で遊ぼう」という、子どもたちとからだを使った遊びを月に2回ぐらいやっていたのですが、当時、私は仕事もなかったので、保育者もやるようになりました。(保育者の仕事は)面白かったですね。

 

WANによる展覧会の記録をまとめた本
WANによる展覧会の記録をまとめた本

――日本に戻られてから、ご自身で立ち上げられたウィメンズアートネットワーク(WAN)はどのような動機と経緯からつくられたのですか?

 
afaが私がかかわったあと2年で、無くなったんですね。それがすごく残念で、もう自分でやるしかないと考えて、作ったのです。

 

ヨーロッパでは、女性のアーティストたちはすごく活発に、スペース(拠点)やリソースセンター(資料センター)をつくったり、ギャラリーを運営したりして、女性によるアートのための環境づくりをしているのです。
そういうものが日本にはまったくありませんでした。だから、女性アーティストを支援するようなセンターをつくりたいと思ったのです。

 

《パフォーマンスフェスティバルの実行委員として忙しく働いた割には心弾ませることがなかった経験が、女性が集う活動に私を走らせた。女が楽しく活き活き出来る活動をしたい。女性のアートを考えるグループが日本にひとつあってもいいじゃないか。 女性のアート資料センターがカナダの少し大きな街街には必ずあるのを見て触発されていたわたしは、なおさらそう思った》(『ムーヴ』から)

 

場所を得るのはなかなか難しいので、隔月で、スペースを借りてミーティングをやっていったんですね。最初に、声をかけやすい人たちに声をかけてイベントをやった。それが1995年の4組の女性によるパフォーマンスのイベント「ディスタントスキンシップ」です。回帰船の子どもたちも見にきてくれましたね。

 

WANは、2002年にやめました。人のつながりはできましたが、大きな展覧会をつくるのに邁進したので、みんなそこで疲れたのです。また、私が思っていた「できればセンターに」という構想は、現実味が持てなかったのか。私の話し方が足りなかったのか、実現できませんでした。

 

展覧会をつくるまではイメージがつくのですが、それだけでなく、もっとアーカイブのようなものにしていきたいという意図はその段階では浸透していなかった。みんなの中に入っていなかったんだな、と後で思いました。やっぱり展覧会でくたびれたのだと思います。

 

展覧会は2001年1月。その前年の12月に「アートサロン」をやりました。全国の美術館、ギャラリーに「女性のアートの本があれば送ってください」と頼み、200冊ぐらい集まった。それを展示したり、先輩のアーティスト4組の話を聞くイベントをやりました。

 

そういうのを一気にやったのがよくなかったのかな・・・。やりたいことをみんなやった、という感じでしたね。今思えば、本当はゆっくり、大切にやればよかったのかな。ただ、あの時の人の集まりというのはすごかったですからね。今では39組のアーティストを集めるというのはとても・・・。あれが最初で最後。

 

*「大きな展覧会」というのは、東京で2001年1月に開催された「越境する女たち21」展。「キュレーターが作る展覧会とはかけ離れたもの」で、アジアの女性アーティストも招待し、39組の作品が発表された。ターリさんは、展覧会を経た後のWANの終焉について『ムーヴ』にこう書いている。

 

《大事業はさまざまな思いを残し終わった。 ドキュメントブックも出来て、1年が経った時に今後を話し合う場で「メーリングリストだけで繋がるネットワークで良い」という意見が大勢を占めた。そのとき、わたしはWANをやめることにした。》

 

――少し話がさかのぼりますが、ターリさんが自ら「エポックイヤー」と呼ばれている1996年の転機についてうかがいます。1月の青山のクラブスペースで行われたパフォーマンスで、ご自身のセクシャリティ、つまり同性愛者であることをカミングアウトされました。どのような心の中の流れがあったのでしょう?

 
カミングアウトは96年ですが、90年に初めて具体的な恋人というか、面と向き合える人ができました。カナダ―ツアーしている中で出会ったカナダ人です。3年ぐらいつきあいました。

 

カミングアウトしたのは、パフォーマンスアートをやっていたからです。パフォーマンスアートは、演劇のように、誰かになりかわって演じるわけではありません。私自身が表現の媒体でもあるし、そのものなのですね。そのまま、あるがまま。

 

そこでセクシャルティのことだけをすっぽかして、(パフォーマンスアートを)やっていることが私の中では理に合わなくなった。逆に不自由・・・不自由というよりも、ちょっと変だと思ったのですね。そこだけすっとばしてモノをいうことが。

 

まあ、いろんな考え方はあると思いますが、私はそう思ったのですね。だから言ってしまおうと思ったのです。

 

――セクシャリティが人間のなかで大切なものだから、ということでしょうか?

 

そうですね。すごく支配されますし。生き方としても(影響が)大きい。

 

*1月の青山のパフォーマンスアートでのカミングアウトの翌月、ターリ―さんのアート感を変える出来事が起きる。


《〈自画像〉というタイトルで、自問自答するシーンが形をなしたのは2月の女性センター・らぷらすでの時だった。ところが一大事が起きてしまった。「レズビアン」という言葉を使うシーンがあることが主催者であるらぷらすの担当者に伝わると、その言葉は「使うな」と言ってきたのだった。それは「あなたの存在を認めない」と言っていることだと気がつかないのか。(中略) そして本番を迎えた。会場の雰囲気は良くて、これなら大丈夫だろうと思い、ぎりぎりのところで「女を愛する女です」と言った。》(『ムーヴ』から)


――世田谷区の「せたがや女性センターらぷらす」(現在は「世田谷区立男女共同参画センターらぷらす」」)の職員に「レズビアン」という言葉を使うなと言われたのはショックでした?

 

ショックでしたね。こちらは大変な思いをして言おうとしているのに、言っちゃいけないというのは。「いいよ、いらないよ」と、私の存在を認めてもらえないと思えたし・・・。あれはショックでしたね。

 

――センター側の理由は?

 

結局、行政ですから担当者が(世田谷区の)上司に分かるのが、恐ろしかったのではないでしょうか。企画をした人が内容を担当者に話したところ、その担当者が「困ります」と。


――この出来事によって、アートへの考えはどう変わったのですか?

 

アートがアートのためだけではないし、メッセージというか、人に何かを伝えるということが一つの大きな要素としてありえる、あってほしい、あってもいいんじゃないかという立場に変わったことですね。


《この事件がわたしのアート感を変えた。メッセージを伝えることもアートの仕事の一部であると。〈自画像〉は26回、あらゆるところでやった。》(『ムーヴ』から)

 

――『ムーヴ』の中では、英訳をされたレベッカ・ジェニスンさん(京都精華大教員)との対談で、ターリさんはこの事件を契機に「インデジブル(不可視)なものとしておきたいとする力、多様性を認めない力が存在することを可視化したいと思う気持ちが強まりました。そのことは他のマイノリティへの関心を広げることにもなりました。そのとき、わたしはマジョリティであって、問題はそのマジョリティの側にあるのだと知りました」と述べています。これがそれからの日本軍慰安婦や沖縄をテーマにした作品へとつながってくるのでしょうか。

 
そうです。初めてセクシャルマイノリティを取り上げた作品が『自画像』。その後、1998年には『わたしを生きること』で、家族との関係について問いました。2000年、3つ目は『恐れはどこにある』というタイトルで、ホモフォビア(同性愛者を拒絶・嫌悪する)社会を当時の石原慎太郎・都知事の差別発言をからめて言及しました。

 

2003年、4つ目は、『虹色の人々』。在日朝鮮人の友人とレズビアンの友人へのインタビューを挿入し、異なる位相ではあるけれども、本名を使いにくい状況を言及し、生きにくさを表しました。

 

――社会のなかで、ある力によって見えさせなくされているものを見えるようにするという・・・

 

それがいつもあると思います。私の原動力というか、モチベーションというか。(作品をつくる)理由ですね。

 

――これからはどのように?

 

(自身の活動を振り返る)この本を書いたことで、今、「これから何をするんだろう?」と思っています。


パフォーマンスアートはやり続けられるだけやります。終えられないんですよね、困ったことに。沖縄の問題も、慰安婦の問題も、福島の問題も終わっていない。パフォーマンスをやっていくものとして、流れて行っていいんだろうかと思っていて。そういう難しさがあります。


一方で、過去にやったものをずっと引きずっていくわけにはいかない。だから、その時の自分に正直であるしかないのです。

 

パフォーマンスというのは、その時に「今はこう」と言ってパフォーマンスするしかないから、毎回毎回決着はつけているのです。それが福島のことになったり、ほかのことになったり。

 

ただ、いつも福島のことは・・・。こういうパフォーマンスの表現をしているだけで良いのだろうかと思います。「やれることをやればいい」とは言われますが。

 

――今回、『ムーヴ』を日本語と英語の併記で出版されたのは?

 
日本の情報がほとんど海外に伝わらない。超有名な人は展覧会のたびにカタログができるのでしょうが、それはほんの一握りで、紹介のされ方が偏っているのです。だから草の根的な活動をしているアートシーンもあるということを知ってほしい。ヨーロッパやカナダに行ったりしたことが私にそう考えさせているのだと思います。

 

――女性のアートに関するアーカイブやセンターをつくりたいという思いがあったわけですから、その意味でこの本は一つの役割を果たしていますね。

 

そうです。そういうつもりで、単なる個人史だけでなく女性のアートに関する歴史をまとめたかったのです。

*最後に、ターリさんが「女性人権活動奨励賞=やよりジャーナリスト賞」を受賞した時のスピーチの一節を紹介し、このインタビュー記事を終えたい。

 

イトー・ターリさんのプロフィール
1951年、東京生まれ。和光大学人文学部芸術学科卒業。東京マイム研究所1期生。1982年、オランダのヘットクライン・シアターに1年契約で所属し、『白い天使』『秋の野』に出演するなど、80年代の4年間をオランダで活動。1990年にはカナダ横断9都市ツアー、1991年にはアジアフェミニストアートafaの企画によるインドネシア、タイツアーなど、日本と世界の各地でメッセージ性の高いパフォーマンスアートをしている。1994年には「ウィメンズアートネットワーク」(WAN)を始める(2002年まで)。


2011年、「日本を含む世界の女性たちが置かれている状況に光を当て、性差別や不平等をなくすための活動を、ジェンダーの視点に立って生き生きと発信する女性ジャーナリスト、アーティスト」に贈られる「女性人権活動奨励賞=やよりジャーナリスト賞」を受賞。

 

1993年秋、カナダからの帰国後、小金井市に住む。

アーティスト名の「ターリ」は、コクトーの詩集に出てくる女神の名前からつけたという。

 

 11月8日(日)

  第73号の主な内容

(随時更新されます)

《市政の焦点》

■12月小金井市長選特集

☆白井とおる市議が立候補表明(2015年11月8日更新)

 

☆白井市議の立候補記者会見に40人以上の市民が参加(2015年11月8日更新)

 

☆4陣営の対決構図に 財政健全化への具体策が焦点(2015年11月8日更新)

 

≪酒好きのたわごと≫

その15 越後の酒と謙信(2015年10月17日更新)

  うれしいニュース!

 公益社団法人「全国学校図書館協議会」が発行している「としょかん通信」(中・高校生版)2015年6月号の《今月のブックトーク》に『まちの力 ひとの力 ――変える 試みる 小金井の人たち』がとりあげられました。

 1人でも多くの中学生、高校生にこの本を読んでもらえたら、と思います。感想文も送ってもらえると、とってもうれしいですね。

 以下にその部分を貼り付けました。筆者は、ほそえさちよさんという子どもの本の編集者だそうです。タイトルは、「生きるために つながる」。

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全体はこちらから
としょかん通信「今月のブックトーク」.pdf
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こがねいコンパスのインタビューシリーズ《変える 試みる 小金井の人たち》をまとめた本『まちの力 ひとの力』が図書出版クレインから刊行されています。ウェブ版では読めない、取材秘話などを明かす4本の「エピローグ」と、やまさき薫さんの素敵なイラスト付き。定価1500円+税です。市内の各書店でお買い求めください。クレインでも注文できます。

毎月第1・第3土曜日が定期発刊日です。こがねいコンパスは市民のための羅針盤を目指し、市民とともにつくる地域メディアです。ご意見・ご感想・情報提供などを、koganeicompass@gmail.comへおねがいします。

詳しくはイベントカレンダーのページをご覧ください。こちらから。

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小金井市のイベント情報は、小金井市地域情報サイトのさきナビでも見ることができます。バナーをクリックしてください。

 この人に聞く

脱原発社会への道筋を探る

民間の英知を結集して「脱原子力政策大綱」をまとめる「原子力市民委員会」の舩橋晴俊座長。

前編はこちらから。

後編はこちらから。

*船橋晴俊さんは2014年8月15日、くも膜下出血で急逝されました。ご冥福をお祈りするとともに、船橋さんの思いを少しでも多くの方に知って頂きたいと願っています。(編集長・佐藤和雄)

 

「敗北」を語る

民主党小金井支部幹事長

村山秀貴さん

前編はこちら

後編はこちら

 

イラクから問い続けてきたもの

映画監督・鎌仲ひとみさん

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