安倍首相は著書『新しい国へ』のなかで、「自由を担保するのは国家」だと書いている。
「個人の自由と国家の関係は、自由主義国家においても、ときには緊張関係をともなう。しかし、個人の自由を担保しているのは国家なのである」と。
安倍氏は、ニューヨークで働いた経験もあり、同書にはアメリカをお手本にした記述が多々ある。
ニューヨーク特派員の経験からいうと、米国の政治・社会の出来事を理解するには、宗教の知識がないと物事の表面しか分からないということがある。
◆戦争と国家と宗教
米大統領の就任宣誓式では、必ず聖書に誓う。1月21日のオバマ大統領の2期目の就任式では、第16代大統領リンカーンと公民権運動指導者の故キング牧師がそれぞれ使用した2冊の聖書を使ったことが話題になるほどだ。
日曜日の教会ミサには、物質主義・世俗主義にまみれたはずのアメリカかと思えるくらい多くの老若男女が教会に行く。95%が神の存在を信じているという。
お恥ずかしいかな「ぐーたらクリスチャン」の筆者も、自宅近くの教会に礼拝に行ったのだが、実に多くの人が参加することに驚かされた。
自分なりに考えるに、神の存在を信じる人が圧倒的に多いのは、徴兵制は現在ないものの米国人が戦争状態(あるいは過剰なまでの生き残り競争)に置かれることが多いせいではないだろうか。
礼拝では、地区からアフガニスタンやイラクに派兵されている若者の名前を読み上げてその無事を会衆が祈るのだ。戦争が身近にあるのだ。(注1)
2008年にボストン近郊のケネディーセンターを訪問した時のことだ。ガイド役の60代の男性が、キューバ危機の時の様子を話してくれた。ソ連のフルシチョフ書記長がアメリカと目と鼻の先のキューバにミサイルを持ち込んだ一触即発の国際的大事件だ。
事件が伝わった後、大学生だったその男性が取った行動が面白い。何と日頃はほとんど行かなかったキャンパス内の礼拝所に行き、世界が終らないように真剣に神に祈ったそうだ。ところがその男性だけでなく、礼拝所には多数の学生が詰めかけ入りきらずに長い列を作ったという。それがキューバ危機時の米国の「現実」だった。
一方、当時の筆者は小学生。何の情報もなく、無邪気に「平和ニッポン」を信じて遊びまわっていた。
キューバ危機については、大学で国際政治学で学び、ドキュメンタリーも観たが、「自分のこと」として内面から理解できていたわけではない。
大半の日本人にとって宗教は「葬式仏教」「初詣」程度のものでしかないと思われるが、自分の生存が自己の意思にかかわりなく否応なく付き付けられる米国人にとっては「神」の存在は身近なのだ。
政治と宗教の関係も密接だ。驚くことだが、成立当初の合衆国憲法には、統治機構に関する条項はあっても、基本的人権に関する条項はなかった。適正手続き(デュー・プロセス)などの手続が、後から修正という形で次々に付加されていった。
◆独立宣言
そこでアメリカ独立宣言を見てみたい。(注2)
「われわれは、以下の事実を自明のことと信じる。
すなわち、すべての人間は生まれながらにして平等であり、その創造主によって、生命、自由、および幸福の追求を含む不可侵の権利を与えられているということ。
こうした権利を確保するために、人々の間に政府が樹立され、政府は統治される者の合意に基づいて正当な権力を得る。
そして、いかなる形態の政府であれ、政府がこれらの目的に反するようになったときには、人民には政府を改造または廃止し、新たな政府を樹立し、人民の安全と幸福をもたらす可能性が最も高いと思われる原理をその基盤とし、人民の安全と幸福をもたらす可能性が最も高いと思われる形の権力を組織する権利を有するということ、である。」
基本的人権が英国国王ではなく、「創造主」に由来する天賦人権論がまずあり、基本的人権は「不可侵の権利」であると謳われている。
その権利を確保するために政府を樹立され、政府がその目的に反するようになった場合は、政府を改造・廃止することができると明記している。
そして独立の大義名分として、英国王の非道を18カ条にわたり列挙、植民地の分離独立・革命が正当であることを主張している。
つまり、個人の基本的人権を確保する「手段」として国家を組織するのであって、その逆ではない。安倍氏の「自由を担保するのは国家」というのは、論理が逆転しているかのようで、かつ意味も曖昧だ。
確かに、いったん民主的国家が成立すれば、国民に自由を保証するように仕事をして行くので相互作用が生じるだろう。
しかしその国家は「統治される者」=主権者に奉仕することが義務付けられている。安倍氏の論理は「逆立ちしている」。
◆自民党の憲法改正草案
自由民主党の日本国憲法改正草案(注3)では、Q2で、「天賦人権説に基づく規定振りを全面時に見直しました」と述べている。
筆者は憲法学者ではないので、この憲法改正草案で気にかかる点については指摘するだけにとどめたい。
(1) 改正12条(国民の責務)「自由及び権利には責任及び義務が伴うことを自覚し、常に公益及び公の秩序に反してはならない」
(2) 改正19条(思想及び良心の自由)思想及び良心の自由は、保障する。(現行憲法は、侵してはならない)
(3) 改正21条(表現の自由)「公益及び公共の秩序を害することを目的とした活動を行い、並びにそれを目的として結社をすることは、認められない」
(4) 改正94条(新設)緊急事態宣言
(5) 改正100条憲法改正手続きの緩和
(6) 現行97条(最高法規性)削除(現行憲法は、侵すことのできない永久の権利と明記)
(7) 改正102条(憲法の尊重義務)天皇・摂政は外される
これと独立宣言を比べると、天賦人権論の翻訳口調を改めたという程度ではなく、「侵すことのできない権利」である基本的人権も、法によりさえすれば簡単に「公益」の名の下に制約可能ということになりはしまいか。
◆「法の支配」と「法治主義」の違い
安倍氏は、日本が「法の支配」を尊重する民主主義国家だと自慢するが、「法の支配」と「法治主義」の本質的な区別が理解出来ているのであろうか。
「法の支配」の鉄則は、基本的人権は創造主によって与えられたものであり、法律によっても「侵すことのできない」重要なものであるのに対し、ドイツなど大陸系の「法治主義国」では「法律によりさえすれば」基本的人権を公益の名の下に制約可能とした点が、ナチスや日本の軍国主義などの苦い体験から学んだはずの人類の歴史的教訓ではないか。
戦前の大日本国憲法という「不磨の大典」でも、人権を制約するのには「法律」が必要だったのだ。自民党の憲法改正草案は、限りなく「法治主義」に近い。
憲法学を修めれば、日本国憲法の基本的人権の根底には、実は「創造主(主にキリスト教)」によって与えられた価値があるということを教わるはずである。
安倍氏の『新しい国へ』は、都合のよいところだけアメリカをモデルにしているが、当のアメリカは「価値の多様性=相対主義」であるものの、最終的には創造主が控えている価値の序列があるのだ。ここを学ばないとアメリカは半分しか理解できない。
安倍氏は、国家が善であるという前提の下で、権力を握る者の「抑制の必要」の自覚に乏しい。「限りなく軽い」議論に終わってしまっている気がしてならない。
安倍氏の掲げる「戦後レジームからの脱却」は、日本人にとって「敗戦革命」によって手に入れた人類普遍の価値を限りなく危ういものしてしまいかねない危険性を秘めていると思われる。国会議員の90%が改憲に賛成という調査結果もあるが、ここは慎重になってほしいものである。
(日米安全保障条約に関しては、筆者は反対ではないものの、その将来性・方向性について安倍氏とは見解が異なる。この問題については、長くなるのでまた別の機会に考えを述べたい)
こがねいコンパス第24号(2013年3月2日更新)
(注1)
米国政治・社会と宗教の関わりについては、多くの本があります。
「アメリカ精神の源」ハロラン芙美子(中公新書)
『宗教からよむ「アメリカ」』森孝一(講談社選書メチエ)
が参考になります。
(注2)米国大使館 米国の歴史と民主主義の基本文献
http://aboutusa.japan.usembassy.gov/j/jusaj-majordocs.html
(注3)自由民主党 日本国憲法改正草案Q&Aは以下のファイルをクリックしてください。(ファイルが重いので、ダウンロードに少し時間がかかるかもしれません)
山本俊明(やまもと・としあき)氏のプロフィール
小金井市在住のジャーナリスト。記者歴30年、シドニー特派員、ニューヨーク特派員などを歴任。 国際問題から地方自治まで幅広い分野を扱う。月刊誌「世界」2012年12月号にルポ「福島畜産 復活への苦悩と闘い」など。 「一市民」として本コラム陣に参加。