加藤春恵子(はるえこ)の

もう一つの日本    Alternative Japan

第18回 「核廃絶」に向けて

          ――語り部たちの夏――

<遺骨なき墓>

 

 8月になると思いだすのは、三郎叔父と、その死を思い続け、「遺骨なき墓」と小見出しをつけて歌集に遺した母の連作だ。
  
 よれよれのもんぺ着し母が長崎よりたどり着きて三郎の死を告げし日よ

 原爆にて三郎も死にきと聞きし時顔こはばりしまま泣けざりし

 くぼみたる鉄冑とひしやげし水筒をリュックに入れきぬその新妻は

 耐へ耐へて重き戦病を癒したる三郎よ一瞬のピカドンに死にしとは

 塵芥のごとく人命の扱はれし年次は明らかに石に刻まれぬ

 

 

 母の3人の弟のうち、太郎叔父は社命を受けて一家5人で台湾に赴任後すぐ赤紙が来て、長崎に向かう船が五島沖で撃沈され沈没。東京にいた次郎叔父は結核で死に、寺に預けられたばかりの遺骨が寺ごと東京大空襲で焼失――。

 

 母は「悲しみよりも深き憤り」と他の歌で表現した思いを、盆の墓参りの道々、私に語り聞かせるのが常だった。

 

 軍需工場に徴用されていた叔父は、長崎市郊外の山の家でようやく与えられた新妻と母親とのつかの間の幸せな数カ月の最後の夜、月光の中で2人にバイオリンを弾いて聞かせ、翌朝元気に出勤してそれきり帰らぬ人となった。

 

 祖母とともに私の家にたどり着いた叔父の妻いく子さんは、叔父の遺骸を探し回った時に受けた、今でいう内部被ばくで死去。東京のささやかな家で付き添いの人をお願いして暮らしていた祖母はすっかりぼけて、小学生になった私が泊りに行くと、夜中に隣の床からむっくり起き上がり、「太郎・次郎・三郎、私が代って死んであげたかった」と仏壇に手を合わせて、また眠りにつくのだった。

 

 このような、家々の悲しみの物語が、家族の胸に刻まれ、親族・近隣・地域に伝えられ、原爆投下記念日や敗戦記念日の首相のメッセージにも影響を与え続けて、この国の「不戦」の誓いと「平和」をとにもかくにも支えてきたのだと、私は思う。

 

 その首相のメッセージに異変が起こっている。「不戦の誓い」がカットされてしまった、と夕刊で8月15日の式典を報じた日本経済新聞でさえ懸念する状況に立ち至っている今年、各地で、「不戦」「平和」そしてとりわけ「核廃絶」の想いを伝え、世代を超えて、人びとの心に刻もうとする営みは、どのように行われているのだろうか?

 

 私の訪れた催しの中から、心に残ったことをいくつかご紹介したい。

 

(多摩市の市報から)
(多摩市の市報から)

<多摩市平和展へ>

 

 7月のはじめに多摩電力を取材した際に、「第22回多摩市平和展」(7・29~8・4)のビラを渡してくださった方があった。あちこちで行われている平和展であるが、とりわけ充実したプログラムに惹かれて、最後の2日間、会場のパルテノン多摩に通うことにした。

 

 まず、「語り:戦争体験談 語り手 木場耕平さん『長崎の体験』」と書かれた部屋に行ってみた。残念なことに私が事前に受け取っていたプログラムから当日は時間が変更になっていて、お話は終わりかけていたのだが、木場さん=写真=と主催者の多摩市の被爆者団体やまばと会の堀場さんにお願いすると、展示会場の一隅で親切に時間を取ってお話しを聞かせて下さった。

 

 中学生だった木場さんは、長崎に原爆が投下された日は作業に出ていた。家に帰ると母と妹は遺骸も見つからず、生き残った兄と2人、近所の人に助けられて母たちの洋服の切れ端と思われるものを墓に納め、東京に出て、苦学して仕事につき、定年後は東京の被爆者団体である「東友会」の事務を担当された。

 

 あのとき、自分は子どもだということで周りの大人たちが遺骸探しなどがんばってして下さるのを見ていたのだが、奮闘して助けて下さった方々は皆早々と死んでしまわれた、と故郷の温かさへの感謝をこめて話された。

 

 長いこと語りたくなかった被爆体験を近年になって語り始めたのは、孫が育ち、原爆で死んだ妹とそっくりになってきて、二度と再びあんな子が死ぬことがあってはならないという思いを強くしたからだという。

 

 展示は、「ヒロシマ・ナガサキ 原爆と人間」、「高校生の見たヒロシマ――東京都立永山高等学校の修学旅行から」、「子ども広島派遣」「ダイオキシン被害は他人事か」「多摩工廠とその後の変遷」で、いずれも充実しており、パネルも大変読みやすい。

 

 「語り」の行われていた部屋では、学習会「火工廠、弾薬庫、サービス補助施設――気がつけば、何時もそこは軍事施設」(講師:神子島健氏=東大助教)、講演「アジアのいま、アジアの人びとからみた日本」(講師:南風島渉氏=報道写真記者)とつづき、6時半までぎっしりのプログラムだった。

 多様な企画に、それぞれかなりの人数の市民が集まって、熱心に学習している姿が印象に残る。

 

 折しもパルテノン多摩から駅に向かう大通りは多摩市の夏祭りで、櫓の上では市長のあいさつや、市内のサンリオピューロランドから到着したキティちゃんのおどりがあり、子どもが大勢集まって、平和そのものの賑やかさだった。

 

(多摩市の市報から)
(多摩市の市報から)

 翌日の日曜日は、アニメ『えっちゃんのせんそう』とドキュメンタリ―『放射線を浴びたX年後』の映画2本立てを見る。

 

 市長になる前、日本新聞協会の仕事をしながら市民としてこの平和展の実行委員長をしていたという阿部裕行市長があいさつして、6日の原爆投下の記念式典に向けて派遣される子どもたちに同行すべく、自分もヒロシマに向かうと述べ、会場の子どもたちに平和の尊さを語りかけたのが印象的だった。

 

 関係者に伺うと、市役所の担当者と平和関係のいくつかの市民団体の担当者が集まって、毎夏の平和展終了後、反省会を行い、その後月1回のペースで、候補に挙がった上映作品を全員で見て議論し合うといった具合に、翌年のための企画をじっくりと協働して練り上げるのだという。

 

 多摩の市民力は層が厚く、協働のスタイルが定着しており、子どものときから、作文を提出して広島派遣に応募するといったかたちで参加して、市民力を身につけていく仕組みも練られていると感じる。

 

 映画に話を戻せば、アニメには、子どもの世界にも悲劇をもたらした植民地支配の問題が取り上げられていて、興味深かった。ドキュメンタリーの方は、第5福竜丸以外のことはほとんど知らされてこなかった1954年の米国の水爆実験による被ばくが、日本全国の漁師にも起こっていて、あちこちで癌による若死にが発生し、被ばくした船が持ち帰って、政府の情報コントロールのもとに売りさばかれた魚は日本全体の食卓に上っていたという。

 

 「核廃絶」の問題が改めてクローズアップされている今日、市民が改めて知るべき情報を盛り込んだ作品だった。2012年ギャラクシー賞(報道活動部門)大賞、文部科学省選定、というこの作品は、全国津々浦々で上映されて行くにふさわしい作品だと思う。

(同映画の公式ホームページから)
(同映画の公式ホームページから)

<東友会>

 

 8月6日も相変わらずのカンカン照りだったが、この日は東京都全体をカバーする被爆者団体「東友会(東京都原爆被害者団体協議会)」結成55周年記念の「つたえようヒロシマ・ナガサキ 東京原爆展2013」7.31~8.5)の最終日だ、と多摩のやまばと会の堀場さんから教えていただいていたので、東京都庁の45階南展望室まで出かけた。

 

 2013年1月末現在、東京の63自治体中56自治体(23区27市4町2村)に被爆者が住んでおり、そのほとんどには地区独自の会がある。東友会はこれらの会から構成されており、日本被団協(日本原水爆被爆者団体協議会)にも代表を送っている。被団協ができたのは、先に触れた米国の水爆実験から間もない頃であり、これと前後して各地区に様々な名前の被爆者の会が生まれ、1958年に東友会が生まれたのだ。

 

 それまで、広島・長崎で家族を失い、住まいを失って、被爆による心身の不調を背負い、一見元気に見える人でも、健康不安や被差別の苦しみを抱えながら、全国各地に散り、とりわけ大きな東京で心細い思いをしていた被爆者たちは、この会をよりどころとして励まし合いながら、再び自分たちのような犠牲者が出ることがないようにと、核廃絶を願って被爆体験を伝え、被爆者に関する諸制度の充実、原爆被害に対する国の償いを求める運動などを進め、今日に至っている。

 

 2011年7月に被団協は原発の順次停止・廃炉を求める方向を打ち出した。東友会の構成員である世田谷の同友会による2011年の被爆者証言集には、会員の三宅幸雄さんによる「被爆・被爆者運動から反核平和の想いを世界へ――ヒロシマ・ナガサキ・・・そしてフクシマ――」が巻頭に掲げられている。

 

 核による被害の先輩として、福島出身の移住者のネットワーキングのためのノウハウの提供などにも、各都道府県、あるいは各自治体の被爆者団体は、手を貸していくことができるのではないかと思う。

 

 会員が立ち寄っていくデスクのところで、折り鶴を教えて頂きながら、長崎出身の世田谷の同友会の会長さんと叔父のことなどで話しこみ、明日世田谷区役所のピロティで、ピースアクション2013(8.6~8.9)のオープニングがあり、期間中この場所で行われる「原爆写真展と被爆者のお話」の第1回も行われる、ということも伺うことができ、はるかに母方のルーツのまちのあたたかさを感じ取ることもできたひとときだった。

 


<世田谷にて>
 
 翌日はちょうど世田谷に行く予定があったので、区役所に寄ってみた。

 

 ピースアクション2013は、2003年から始まり、若い人も交えて、組織や個人が名前を連ねて区と協働している様子だ。多摩のように、すごいパワーを感じさせる、というのではなく、区長のあいさつはあるものの、予算も少なそうで、ごく自然体。

 

 今年のプログラムは、3日間続く「原爆写真展と被爆者のお話」(写真展は11-16時・お話は12時30―50分)と、8月8日の世田谷公園での「平和の広場のつどい」(17:30-~18:30)、加えて、8月9日の「平和資料館建設に向けたタウンミーティング」(12:30~)というゆるやかなものだ。

 

 この日のお話は、広島で被爆された世田谷同友会の杉野信子さん。

 

 ――何しろ1歳半の時のことだったので、私の話は、母から聞いたもの。特に、母が年をとったと感じた時、ああ、もうあの日の話は私が語れない限り我が家の記憶から消えてしまう、と思い、帰郷の際に一生懸命話をきいて、記憶にとどめたのです。

 

 杉野さんは、そう断って、「あの日」にまつわる家族の物語を語り始めた。

 

 中学一年生だった長兄は、後に平和記念公園となった一角で道路工事作業中に、級友とともに全滅。5年生だった次兄は集団疎開中で助かったが、2年生の姉は小学校の登校日だったため学校で被爆した。自宅の下敷きになっていた母と自分を、近所の人が助け出してくれ、逃げる途中で近所に住む級友とともにその母親に連れられて帰って来る姉と出会い、一緒に避難。弱ってくるその姉を実家に連れ帰って母が懸命に看病しているところへ、国内の兵舎で病を養っていた父が帰宅。小さな自分も両親とともに姉の死を見送り、父は気が抜けて次兄を疎開先に迎えに行くこともできなかったという。

 

 幼児だった自分は、元気にしていたが、育っていくにつれて子どもたちを失った父母の悲しみを深く感じ取るようになった。とりわけ母の悲しみは深く、8月6日には式典を嫌って朝早く記念碑に祈りをささげるのを常としていたのだが、これはその姿を撮影されて地方紙に掲載された時のものです、と新聞を広げて見せて下さった。

 

 母の語りをうけついで、叔父の物語を原点に生きてきた私には、杉野さんの、何とかして母の悲しみを聴衆に伝えたいという必死の思いが胸に沁みた。

 

 被爆当時、物心ついていた語り手が、次々に体調を崩されたり昇天されたりしていくなかで、私と同年輩の70代の男女が、会の運営や、語り手役を担って、伝えることの意義を噛みしめ、工夫しながら、一生懸命に2度とあんな日が来ないようにしようと不戦・核廃絶のメッセージを語り継いでいく――そんな局面にいま遭遇しているのだと思った。

 

 杉野さんは、白血病の癒されるのを願いつつ鶴を折って死んでいったことで知られる佐々木禎子さんと同学年。彼女の死に大きなショックを受け、自分も何時がんになって死ぬのだろうかという恐れがあり、せめて20歳までは生きたいと思っていたという。

 

 40代にがんを経験したが、幸い癒されて今日に至り、退職後世田谷同友会の世話役をするようになって、1年半前から経験を語るようになった。

 

<【核廃絶】の語り部・小出さん>

 

 これまで、原爆による被爆体験の語り部たちとその所属グループのことを取り上げてきた。福島の方のお話しを聴く機会は、持つことができなかったのだが、原発という側面から核の廃絶を語っている強力な語り部に、8月の終わりに遭遇した。

 

 8月31日に東村山市の中央公民館ホールで行われた「未来の子供たちのために~東日本大震災と福島原発事故を忘れない~」が、その舞台だった。

 

 三多摩青年合唱団の主催による催しで、プログラムの前半は、NHKのコンクールでも好成績を挙げている市立東村山第2中学校合唱団と地域に根をおろしている三多摩青年合唱団が、この日にふさわしい歌詞の曲を選んで演奏した。その演奏に耳を傾けたうえで、響き合うような形で語り始めたのは、関西在住の原子力研究者、小出裕章さんである。

 

 真ん中の大きなスクリーンを使って、舞台脇にスポットを浴びて立った小出さんは、満員の客席の前の方に座っている先程歌った中学生に語りかけるように、キューリー夫妻の被ばく死や東海原発の臨界事故で被ばくし80日を超える治療の末死去した作業員、大内さん・篠原さんの症状を詳しく述べて、具体例を通して放射線の人体に対する巨大な破壊力について分かりやすく話し、特に、成長中の子供たちがその影響を強く受けさせられるのだということを説明した。

 

 続いて原子爆弾について語り、大戦後、人びとが「平和利用」という幻の夢に取りつかれ、その中で自分も核エネルギーの持つ巨大な力を人類の生存のために使おうと志して、原子力専攻の学生になっていったことを明かした。

 

 しかしやがてチェルノブイリ事故が起こり、地球の裏側の日本にもセシウム137が飛来した。福島第1原発は、事故後の事態が収束したどころか、4号機は、今なお冷却用プールの中にある広島型原爆一万余発分のセシウム137を水につけたままキャスクに入れてとり落さないよう慎重に取り出すという危険な作業が残されているなど、多くの課題を抱えていると、事故の危険を具体的に説明した。

 

 最後に小出さんは「未来の子どもたちへの私(たち)の責任を強調し、大本営発表を信じて政府のなすに任せて危険をもたらした人々同様、安全神話を信じて原発を容認してきた私(たち)は、これからどう生きるかを問われる。子どもたちに謝罪し、私にできる限りのことをしたと伝えられるようでありたい」と語り終えた。会場から、静かで、大きな拍手が起こった。

 

 核兵器の廃絶だけではなく、「平和利用」の夢の後始末としての廃炉作業も、一人一人の「私」の責任であり、日本の豊かさを享受して「安全神話」の底にあるものをえぐってみることをしなかった私たちの世代の責任なのだと、それぞれの胸に刻みつけて、聴衆は会場を後にした。

 

 会場内の本の売り場には、小出さんの『原発と憲法9条』(遊絲社 大和郡山市 2012)が1冊だけ残っていたので買い求めた。2011年7月に滋賀県大津市の堅田教会で行われた講演などを収めたものだ。

 

 日本ではnuclearという同じ言葉が、兵器に関しては「核」、発電に関しては、「原子力」と、別の言葉のように用いられているため、原発の危険性が覆い隠されていること、日本政府が原発保持に固執する理由は核兵器をつくるための核の使用可能状態の保持にあることなどが記されており、今回の講演の理解を助けてくれた。小出さんの『隠される原子力・核の真実 ――原子力の専門家が原発に反対するわけ』(創史社 国分寺市 2010)と併せてお勧めしておきたい。

 

 現段階で日本人が核兵器の廃絶を叫んでも、自らの手で決定できることは少ないが、「原子力発電=核発電」の廃絶を決定することは、民主主義のシステムを取っている限りにおいて、決して不可能なことではない。そしてその決定は、核兵器の種火とでも言うべきものを吹き消すことになり、核兵器の廃絶にもつながるのである。

 

 バラク・オバマが、大統領就任間もないころプラハで大群衆を前に語り、ノーベル平和賞受賞の根拠となった「核廃絶」は、核兵器の廃絶を意味する。

 

 フクシマを経験したいま、「核兵器の廃絶」と「原子力発電=核発電」の廃絶とを含めた、より広い意味での【核廃絶】の概念をはっきりさせて、翻訳術の罠にかかることなく,人間が決して制御し尽くすことのできない「核」の呪縛を乗り越えるための歩みを、これまで「核」によってもたらされた、人々、家々の悲嘆をバネとして、改めて始めたいと思う。

 (終わり)

 

こがねいコンパス第35号(2013年9月7日更新)

加藤春恵子(かとう・はるえこ)さんのプロフィール 

 『女たちのロンドン』『広場のコミュニケーションへ』『女性とメディア』『福祉市民社会を創る~コミュニケーションからコミュニティへ~』など、社会学者としての仕事を重ねて、定年後の現在は「ケアサポート湧」、「トランジション・タウン小金井」など、小金井の様々な非営利・市民活動に参加している。桜町在住。

 11月8日(日)

  第73号の主な内容

(随時更新されます)

《市政の焦点》

■12月小金井市長選特集

☆白井とおる市議が立候補表明(2015年11月8日更新)

 

☆白井市議の立候補記者会見に40人以上の市民が参加(2015年11月8日更新)

 

☆4陣営の対決構図に 財政健全化への具体策が焦点(2015年11月8日更新)

 

≪酒好きのたわごと≫

その15 越後の酒と謙信(2015年10月17日更新)

  うれしいニュース!

 公益社団法人「全国学校図書館協議会」が発行している「としょかん通信」(中・高校生版)2015年6月号の《今月のブックトーク》に『まちの力 ひとの力 ――変える 試みる 小金井の人たち』がとりあげられました。

 1人でも多くの中学生、高校生にこの本を読んでもらえたら、と思います。感想文も送ってもらえると、とってもうれしいですね。

 以下にその部分を貼り付けました。筆者は、ほそえさちよさんという子どもの本の編集者だそうです。タイトルは、「生きるために つながる」。

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全体はこちらから
としょかん通信「今月のブックトーク」.pdf
PDFファイル 5.3 MB

こがねいコンパスのインタビューシリーズ《変える 試みる 小金井の人たち》をまとめた本『まちの力 ひとの力』が図書出版クレインから刊行されています。ウェブ版では読めない、取材秘話などを明かす4本の「エピローグ」と、やまさき薫さんの素敵なイラスト付き。定価1500円+税です。市内の各書店でお買い求めください。クレインでも注文できます。

毎月第1・第3土曜日が定期発刊日です。こがねいコンパスは市民のための羅針盤を目指し、市民とともにつくる地域メディアです。ご意見・ご感想・情報提供などを、koganeicompass@gmail.comへおねがいします。

詳しくはイベントカレンダーのページをご覧ください。こちらから。

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脱原発社会への道筋を探る

民間の英知を結集して「脱原子力政策大綱」をまとめる「原子力市民委員会」の舩橋晴俊座長。

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*船橋晴俊さんは2014年8月15日、くも膜下出血で急逝されました。ご冥福をお祈りするとともに、船橋さんの思いを少しでも多くの方に知って頂きたいと願っています。(編集長・佐藤和雄)

 

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民主党小金井支部幹事長

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